坂口安吾 『白痴』 新潮文庫ほか
『白痴』の伊沢は、映画の演出家で、独身男であったが、ふとしたきっかけで白痴の女と住むようになってしまった。彼の女はヒステリーの姑に怯えて逃げ込んで来たのだった。ある日、東京大空襲の警報、焼夷弾、爆発のさ中、伊沢は、自分の恐怖感と白痴の女の絶対の孤独な恐怖感とを対比して観察した。読みながら、何もそこまで冷血に描ききるとは、と思ったが、これは坂口安吾の小説を書く時の常套手段だ。その先を読むとその真意がわかる。仕立屋夫婦が一緒に逃げましょうと誘うと、伊沢は張り裂けるような悲鳴の声で、「僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんまで、自分の姿を見極め得るような機会には、そこのとことんの所で、最後の取り引きをして見ることを要求されているのだ。僕は逃げたいが逃げられないのだ」と一緒に逃げるのを拒否する。つまり、この伊沢の言葉は坂口安吾の作家としての言葉である。そのように冷たく白痴の女を見極めていた伊沢も、その女が空襲の中を一緒に逃げて行く途中、女が初めて自分の意志というものを見せた時、女のいじらしさに感動し、逆上しそうになった。そして、伊沢の心の中の冷たいもの暖かいものが交叉して行く様を安吾は客観的に描いていく。そして空襲下の疲労の中で、女を捨て去ろうか、それもめんどうくさいと、又心の交叉の中で、最低の優しさのまま、正直に終えている。『戦争と一人の女』では、文明、文化に守られ、道徳や幸福を探すだけの生き方を批判し、むしろ戦争中は野生動物に近い緊張感、危機感、躍動感もある、夜の大空襲は美しいと悪魔のようなことを、終戦後のあの時代に敢えて書いている。「しかし私はずるいのだ。悪魔の裏側でも神様は忘れずと自分の心の矛盾を見極めている。
『いずこへ』でも、「私自身がそれ以上の何物でも有り得ぬ悲しさに空しくかみ続けなければならない」というように安吾は、自分の心の角を逃がしたいが逃がさず息をひそめて捕らえて書く作家だ。
どなたかの本に安吾の写真があった。そこには意外にも人なつっこい優しい顔があった。