土居 健郎 『聖書と「甘え」』
98年 2月 読書会ノートよりA「著者は旧約、新約聖書の具体的な箇所を指摘して〃甘え〃について論じているが、私にはヨブ記にも詩篇にもロマ書にもどれについても著者の指摘には納得出来ない。私は旧・新約聖書を通して甘えの入る余地はないと考えている。また著者は日本人の義理人情と甘えを関連づけているが、これにも納得は出来ない。この人情と北森神学のいう痛みとはどこか共通点があるはずだ。どうも今回の著者の本は甘えという言葉にこだわりすぎていると思う」
B「聖書は人間の心の底にある甘えと妬みをおおいに考えられながら、信仰の道を解いていることに気付かされる。また著者は精神医学者であるせいか、社会のあらゆる事件に意見を出しているが、全く常識的な感覚の持ち主であると思った」
C「甘えを dependency と理解することができるとすれば、信仰と甘えは重なる部分も出てくるように思う。母なるものを強く求める日本人を鋭く分析しているが、聖書の理解に関しては、少し読み込みすぎのように感じた」
D「妬みという事についていろいろと考えさせられました。大柴先生の『妬みは一種のエネルギー。それを良くも悪くもするも個人己自身』という考え。これからの自分に課した問いかけの気がする。また、キリスト教のあり方…という事!皆様の意見に耳を傾けられ、有意義な時だったと思います」