むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。
(承前)もちろんこれは、教会を何と定義するかということにもよります。エウセビオスは、キリストを中心に考えたのですし、ルターは教会の働きを主体に見ました。私たちが考えているのは、差し当たり「イエス・キリストを神の子、救い主と信じ、そしてその福音を宣べ伝えて行く信徒の集まり」を教会ということが出来ましょう。そうすればやはり聖霊降臨のあたりから、具体的には始まったと考えてよいだろうと思います。私たちが考えるときには、いろいろな条件が前提にされているのです。
そして、いずれにしても長い神の働きによる教会の歴史のもとに私たちは生きているのであり、歴史を伝えるさまざまな材料をいっぱい積み重ねた中で礼拝をしています。さらに、その礼拝の中で私たちはいつもイエス・キリストと同時的になります。十九世紀の半ばにデンマークの信仰者セーレン・キェルケゴールという人は「信仰というのは、キリストとの同時性のことである」というようなことを申しました。二千年前の人だからと言って、或いは二千年前からずうっとこのように伝えられてきたからと、ただ鵜呑みにしてはならない。イエスさまといえば、後ろに後光の差した、光のわっかを付けたお方、偉いに決まっている、神さまの子だから何をされても不思議はないなどと、簡単に片づけてはならない。私たちが本当にあの時、あの場所にいたらどうだっただろう。あれはナザレの大工の子ではないかと、自分も言わなかっただろうか。そういうことを私たちは真面目に考えていかなくてはならない。具体的な状況の中であの弟子たちと共に「イエスさま、あなたはキリスト、神のみ子、救い主です」と告白出来るのか。それを私たちは聞かれているのだ。そういう意味で、主と同時的に生きることが信仰である、というのです。
私たちは、いろいろな場合に無意識的に、実はそうしています。讃美歌の中を見てみますと「久しく待ちにし主はきませり、主は、主はきませり」。いったい私たちは何を待ってきていたのか。いやこれは二千年前の話ではないのか。あるいは教会讃美歌34番の、有名なパウル・ゲルハルトの歌によって、「われ今馬ぶねのかたえに立ち、きたりて賜物捧げまつる」と私たちも歌うのですが、教会堂の椅子に座っていて、別にまぶねの側にいるわけでもない。それでも素直にそう思って歌っているわけですね。「今日イエス君は甦れり」と復活の讃美歌を高らかに歌う時も、よく考えてみると「今日」は随分昔の今日でしかないのだけれども、そんな理屈は言わない。私たちは信仰の歴史を積み重ねた下にいて、しかもそれを突き抜けて、「イエスさまと一緒」の時を私たちのうちにもっているわけです。
そういう仕方を聖書、あるいは教会は受け継いできているわけであります。しかも特定の期節にそうするだけでない。毎週礼拝で歌う「グロリア・イン・エクセルシス」は、「天には栄光神に、地には平和み心にかなう人に」というあのクリスマスの天使の歌を繰り返しているのです。式文に書いてあるから、その通り、オルガンがなって司式者が「天には栄光神に」と歌ったら「地には平和」と応唱するのだというだけではいけない。ときどきその本来の意味を思い出さなくてはならないでしょう。もちろん、半ば機械的に歌うことが出来るのは、私たちの助けでもあります。いつも、ことごとに、ひとつひとつの礼拝の言葉を考えて、心を込めていたら疲れてしまいます。しかし、私たちが用いている式文も讃美歌も大変なことを伝え、また繰り返し出来事として私たちの中に起こしているのです。そして時々はそのことを思い出さなくてはならない。(続く)
(1996年 8月)