3. 地域に根ざした木造建築 河野 通祐




むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。





 むさしの教会は1978年(昭和53年)に50周年を迎えました。その折まとめられた『私たちの教会50年』によりますと、建築の計画が具体的に始まったのは1953年(昭和28年)の4月19日に開かれた臨時総会で決議された時からでした。そして工事が始まったのが1957年(昭和32年)ですから計画から設計が終わるまで4年かかったことになります。

 今、この建築を外から見ますと、特に専門家を自負する人々は、何故こんなバラックのような建物に四年もかかったのか笑止の沙汰のように思われるかも知れませんが、この四年間は私にとって忘れることの出来ない教会建築についての勉強の時でした。中世のヨーロッパの建築史は教会建築の歴史ですから教会建築の様式についてはいろいろ勉強させられて来ましたが、実際に教会建築を設計する立場に立ちますと、あらためてその様式を創りだした背後の思想を考えてみる必要がありました。それは、どのような建築でも、設計するということは創造することであり。単に外見の形を模倣することではなくその建築が持つ内なるものを証しすることだからなのです。

 キリスト教は砂漠の風土の中から生まれた思考であり、仏教は森林地帯の中で育った思考と言われています。日本の地域はどちらかといえば、森林地帯でありますからこの森林思考の地域に砂漠思考のキリスト教を根付かせる証しとしての教会建築をどのように創るか、という課題に対する答えを求めるための私の勉強がその四年の間続きましたが、答えを見いだすことも出来ないままに模索のむさしの教会の建築が出来ました。ですから、見た目には「貧しい予算の実用的な建築」というように受け取られたのかも知れませんが、私なりに、かつて信仰のために時の権力からの迫害を受け、死んでいった日本のキリスト者に想いを馳せ日本という地域に住む人々の生活の中に砂漠的思考のキリスト教を定着させるための容器としての建築の在り方を考えながら設計を試みました。

 その頃は混乱した経済事情の中で、地域に合った木造建築をつくりたくても、資材事情がそれを挫折させることが多くありました。それでも、年輪や木肌に自信を持つことは出来なくても、日本という地域の自然の中で育った木を使って、日本の工匠が培ってきた木組みの技術を出来る限り採用し、気候風土に調和させるプランニングで建築の経済性を考えた造形で設計をまとめることが出来ました。それが具体的にどのようにあらわされたかについては次章で説明いたしますがむさしの教会の建築を設計するに当たってのもう一つの考えは地域の人々の生活思想の中にキリスト教を定着させるための聖書の解釈と教会の働きそして証しとしての建築の在り方に関してでした。一言でいえば、教会建築の地域性ということだったのです。

 人間の側には絶対はありません。キリストの教えでも、今日私たちが使用する日本の文字と文であらわされた聖書で本当の教えの意味が理解出来るかどうか疑問です。たとえキリストから直接教えを受けたとしても、受け取る側の人間の条件次第によって理解のしかたは違うでしょう。キリストの教え、そしてその信仰は教会にあって一つであるとはいえ、人々の暮らしと地域によって違うのは当然と思います。それが教会建築の地域性を承認する私の考えだったのです。『教会建築』の中で建築家の岩井さんは、むさしの教会を日本の木造建築として紹介されましたが、私はそれを地域に根ざした木造建築と言ってほしかったのです。むさしの教会の建築には経済的な貧しさを超えて、地域に根ざす教会建築を創るというロマンがあったからです。