答えのないところを生きるために 賀来周一牧師

大江健三郎さんに「人生の親戚」という作品がある。ムーサンという知的障がいの兄と、交通事故で下半身不随になった、頭脳明晰な弟道夫の話である。ある日、伊豆の城ヶ崎海岸に二人で出かける。兄は弟の車椅子を押していた。ところが、弟がブレーキを引いてしまったので、兄は車椅子を押せなくなり、車椅子から離れて自分で海岸の崖まで歩いて行って、身を投じた。弟は車椅子のブレーキをはずす。そこは坂になっていたので、車椅子ごと崖から落ちて死ぬ、というのである。

私は、大江さんが「人生の親戚」をなぜ書いたかというテレビ講演を聞いたことがある。大江さんは言う。このような出来事が起こると、人々は答えを知りたがる。そして結局のところ、弟は歩けないし、兄は事態がよく分からないので、二人は海に落ちたのだと結論づけて納得するだろう。でも、ここでは答えがない世界を設定している。弟がブレーキを引いた。兄は、車椅子を離れて自分で身投げした。弟はブレーキをはずして、坂なので車椅子はそのまま落ちた。そこには答えがない。

実は、この小説の主人公は、自殺した兄弟ではない。その母親である倉木まり恵が息子たちに起こった出来事を答えのないままに受容していく物語である。彼女の生き方もまた苦悩と悲劇に満ちている。

大江さんが、この小説で主張するのは、起こった出来事を答えのないままに苦しみながら受容する生き方があってよいということなのである。いろいろな宗教的要素も織り込まれて物語の展開を助けてはいる。でも、安価な神の登場を許す宗教よりも答えのないところを生きる苦しみのプロセスそのものが、嘘のない答えとなっているということであろう。

私は、「人生の親戚」を読みながらドイツの女流神学者ドロテー・ゼレが書いた「苦しみ」を思い出した。第二次世界大戦時下のユダヤ人強制収容所の出来事が引用されている。過酷な状況の下にあって収容されていた子どもたちが脱走する。ほどなく子どもたちは掴まってしまう。ドイツ兵は見せしめのため収容所のすべての子どもたちを一列に並ばせ、五番目毎に銃殺したという出来事である。

ゼレは、「このような時には全能なる神、愛である神は、どこにもいない。もし、そのような神がいるのなら、すぐにでもやって来て五番目に並んだだけで殺されねばならない子どもを助けるはずだからだ。しかしながら、神がいますとすれば、五番目に並んだだけで殺される子どもと共に銃殺される神がいますのみだ。それは苦しむ神である」と言う。彼女は、この神を十字架のキリストに発見する。ゴルゴタの丘の十字架の出来事は、それこそ答えのない不条理の極みである。なぜなら、神が神を見捨てた出来事だからである。

キリストご自身もこの極みに身を置いて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と告白される。答えのないところに身をおいた者の言葉そのものが、そこにある。ここには、答えのない苦しみのプロセスを生きる者に新しい視野を与えるものがあると言えないであろうか。

-むさしの教会だより 2012年3月号-