被災地救援活動では、何気ない出来事の中に人々の痛み・苦しみをそのまま受けることがありました。その深いところにある痛みに出会う時、私たちボランティアはどうしてよいかわからず、じっとしてそこに寄り添うだけしかできませんでした。
石巻北上にある仮設住宅を訪問した時のことでした。奥様、お孫さんをはじめ親族の17名のほとんどを津波で流された方がおられました。ご遺体はまだ誰も見つかってないそうです。一人ぼっちになって凍えるような仮設で一人住まいです。私たちをいつも快く家に迎え入れてくださっていました。今回も久しぶりの再会とあって、お茶に呼ばれました。これからの復興にむけて、コミュニティの再生について。また家族の絆について話をしてくださっていたときのことでした。突然携帯アラームが鳴ったのです。13時15分でした。その方は携帯をみながら一瞬寂しそうにされたのです。そのわけは、この時間は障がいをもったお孫さんを学校に迎えにいく時間だったのです。いつも遅れないようにとアラームを設定しておられたのでした。「もう必要ないだけどね。アラーム解除できんのですわ」と。津波にさらわれたお孫さんのことを毎日思いだすそうです。
アラームが鳴るたびに孫のことを思いだして辛くなる。でも解除してしまうと孫が消えてしまうようでもっと辛い。もうすべて受け止めて前へ進まなきゃいけないと思う。できることならずっとアラームをセットしておきたいと。涙を流しながら話してくださいました。
忘れたいけど忘れられない。辛いけれど心の支えでもある。そんな状況のなかで生きておられる方がたくさんおられます。今年の被災地はいつになく寒く、零下の日もあります。凍えるような仮設住宅の中で、一人生活をしなければならない方も多いです。ルーテル教会救援は寄り添うことをミッションにしています。厳しい現実の中で、それでもイエス様がそこに寄り添っておられるから、私たちの活動もあるのです。
武蔵野教会で3年間にわたり、一人の信徒として礼拝に参加させていただきました。これまで見てきた礼拝の風景とはまったく違う景色でした。礼拝を司式する側からみる礼拝と、参加する礼拝の違いです。教会に電車で通うこともよい経験でした。毎週、信徒の皆さんはこのような気持ちで礼拝にこられるのだということを少し学ばせていただきました。日曜日の礼拝、そして説教がいかに大切かも信徒の側からの視点で新たに教えられたことです。
現代社会には、痛み苦しみを深いところで抱えておられる方が大勢おられます。何気ない出来事の中でそれに出会う瞬間があります。そのとき教会はどうするか。この3年の貴重な教会生活から学んだことは、武蔵野教会が持っておられる賜物の豊かさです。この賜物を生かすことが痛みと寄り添う一番必要な要素だと思います。これからの武蔵野教会の宣教の広がりを祈っています。
-むさしの教会だより 2012年3月号-