人格心理学者としてよく知られ、かつ米国聖公会の熱心な信徒であったハーバード大学教授ゴードン・オルポート(1897〜1967)は、成熟した人間は、如何なる時も前進する勇気と達成感をもって生きると主張する。
そのような生き方ができる人間は、いくつかの特性を身に付けているものだと言う。たとえば、①どこにいても自分らしさを失うことがない。遊んでいる時は自分らしいが、会社や学校にいると自分でなくなるということはないのである。②他者との間に温かい関係を保つことが出来る。つまり、他者を愛することができるということである。③自己受容ができている。自分にいやなところがあっても自分が好きなのである。④情緒が安定している。ちょっとしたことで取り乱すようなことはしない。⑤理性的に物事を処理することができる。現実の中で起こった問題はよく考えて処理する術を心得ているのである。⑥自律的に生きる術を身に付けている。利害損得だけを考えて生きることはない。⑦自分を客観化できる。自分を対象的に見ることができるので、自分にこだわることがなく、過去の痛みに囚われない。
こうした人間性に基づく特性に加えて、オルポートは⑧番目に成熟した人間は統一的な人生哲学(宗教)を持つという。自分の存在と生き方を一段高いところから統合し、包括する哲学的あるいは宗教的体系を持っているといってよいであろう。そのような体系を持っていると、自分の存在や生き方をその体系の価値判断に委ねることができ、結果として如何なる時も前に向かって進む勇気と達成感を持つことを意味する。言うなれば、自分の知恵や力による判断だけで生きることがないのである。時として人は、どう生きてよいか分からずに迷うことがある。そのような時、自分の知恵、力だけで切り抜けようとすると自分はどのような人間か、今経験していることは自分にとってどのような意味があるのか、今ここでどう決断すれば生き方を定めることができるか迷う局面に遭遇することがある。このような時には、生き方をきちんと定めるため自分を越えたところから自分を見定める物差しが要るのである。
オルポートは、それを統一的人生哲学(宗教)と名付け、人が成熟した生き方をするためになくてならぬものとして加えた。彼は、これに学問としての一般性を持たせるために統一的人生哲学(宗教)と名付けたが、もちろんいざというときに自分の生き方を正しく決定する重要な因子であるからには、信奉する体系が何でもよいというわけにはいかない。オルポートは熱心なキリスト者なので、この主張の背景にはキリスト教信仰があることはいうまでもない。しかも大切なことは、キリスト教信仰を狭い意味の宗教の枠に閉じ込めてはいないことである。誰にとっても人が生きるためにはなくてならぬ因子として捉えているところに意味がある。
(むさしの教会だより 2012年 9月号)