自死とスピリチュアルケア 賀来 周一

 季刊「ミニストリー」編集者より自死とスピリチュアリティーについて話すようにとの依頼を受けた。最近、聖職者の自死問題が浮上しており、信仰者であっても自死を選ぶことがあるという事実を踏まえての話しをということであった。自死はしばらく前までは秘された出来事として扱われてきたが、最近では、自死の原因が本人の責任というより、病気であるとの客観的認識が進んできたことによって、オープンに語られるようになってきた。とはいえ、遺族にとって自死は受け入れがたい死の形であることには変わりはない。

 

 私自身は、死を自ら選ぶ人は真剣に生きたのであって、直接的な動機や理由は知り得たとしても、本当の理由は、誰にも分からないと思っている。計画性をもったとしても自死の瞬間への決断は、なんらかのきっかけや刺激が誘発する。最後の決断の瞬間まで冷静な自己決定が機能したとは到底思えないからだ。本当の理由はすべて神のみ手にある。なぜ、死ななければならなかったか、それは亡くなった本人も知らない。

 

 神さましか知らないことは神さまにお任せするのが何よりである。ある遺族の方が言う。「神さましか分からないことがあるといのは本当だ。わたしたちはなぜあの人が死んだのか、その理由をさまざまと探そうとした。その時の気持ちは、悲しいやら、口惜しいやら、腹立たしいやらで、何ともいえない気持ちだった。でも神さましか分からないことは、神さまに任せることが一番と言われると心が安らぐ」とのことであった。

 

 死については、信仰の言葉にはすべての人の魂をゆさぶるような慰めに満ちている。ルターは「キリスト者は、死へ向かうのではない。キリストに向かうのである」と言い、「キリスト者は自然に死を迎えるのであってはならない。死を自分の目前に引き寄せて生きねばならない。それによって罪が完成し、キリストによる救いが成就する」と言う。ハイデルベルク信仰問答は、「生きる時も死ぬ時も、あなたにとってなくてならぬただひとつの慰めは何ですか」と問いかけ、「キリストのものとされていることです」との答えに死の委ね先を教える。ドイツの神学者ボーレンの「天水桶の深みにて」のような妻の精神疾患とその自死を巡って慰めを説く神学的書もある。

 

 幸いにして教会には、死と生の間の断絶がない。神は生ける者の上にも、死せる者の上にも主でいます。だからこそ、自ら命を断った人もまた、主のもとにある。何よりも、そこにこそ、人が求める究極の慰めと希望を届けるにもっともふさわしい舞台を教会に発見する。そのあたりを牧会的に掘り下げるのが、自死への教会におけるスピリチュアルケアといってよいであろう。

(さらに詳しくは「ミニストリー」2013年冬号を参照されたい。ルーテル学院大学教授・前むさしの教会牧師石居基夫先生のまとめ記事も掲載されている。各キリスト教書店にて販売中)。