たより巻頭言「アナムネーシス」 大柴 譲治

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 (ルカ22:19-20)


「わたしの記念としてこれを行いなさい」。主は最後の晩餐でこう繰り返される(1コリント11:23-25)。ここで「記念」と訳されている語はギリシャ語で「アナムネーシス」。「想起」とも「記憶」とも訳される語である。主の言葉をキリスト教会は二千年に渡り守ってきた。このキリストの恵みの出来事を忘れず、繰り返し思い起こすところに私たちキリスト者のアイデンティティーがある。

この夏はアナムネーシスの大切さを深く思わされた。8/17より夏休みをいただいて家族5人で一週間の旅に出た。それは横浜、藤枝、高野山、福山、広島を巡る二千キロの墓参りの旅である。それは死者たちを覚える慰霊の旅であったし、家族としてのアイデンティティーを確認する旅でもあった。藤枝には私の父の墓、奥の院には私の曾祖父と祖父母の墓がある。初任地の福山では土曜日の主日礼拝を守った後、キリスト教合同墓園・聖徒廟と、6月に天に召された福山教会員の墓前を訪問する。翌日主日礼拝のために訪れた広島教会には「メメントモリ(死を覚えよ)」と刻まれていた。そして広島平和記念公園には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあった。1981年2月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は平和アピールのためヒロシマを訪れた。最初に跪いて大地に接吻されたことが印象的であった。「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」。アナムネーシスである。かつて平和公園の外にあった韓国人原爆慰霊碑は公園内に移設されていた。

考えてみれば、私たちが守る主日礼拝も「墓参り」である。そこで私たちは主の空の墓を覚えている。最近では「聖卓(=主の食卓)」を擁する礼拝堂が少なくないが、しばらく前までは壁に密着した「聖壇」を擁する礼拝堂が多かった。聖壇は主の墓を表している。その墓は空っぽであり、死は終わりではないこと、墓は私たちの終着駅ではないことを毎週の礼拝において確認しているのだ。14年ぶりに家族皆で訪れた福山教会では壁にあった聖壇が前に出され、聖卓として用いられていたことが目からウロコ体験だった。主の墓参りをする私たちに主は繰り返し「取って食べなさい。これはあなたのために与えるわたしのからだ。取って飲みなさい。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」とパンとブドウ酒を差し出してくださる。ここに私たちの真のアイデンティティがある。

9/20(日)に武蔵野教会はホームカミングデーとして聖餐礼拝を祝う。久しぶりに懐かしいお顏に会えることが楽しみでもある。そこにはいつも変わらず私たちを暖かく迎え入れてくれる羊飼いのステンドグラスと交わりがあることを感謝し、その喜びを共にかみしめたい。

アナムネーシスに乾杯!!

(2009年9月号)