先の著作(『神の元気を − 』)では、「見る、聞く」をできるだけ避けて、「取り次ぐ(communication)」を用いた。折しも河野泰弘著『視界良好 – 先天性全盲の私が生活している世界』を読んで熟考を促された。「見ることとは,全身で感じ,味わうこと」と示唆を与えられ、氏の生き方からも元気を貰ったしだい。
ふと、来年にも2千万人の目標を軽々と達成と報道される外国人観光ブームの「観光」にも気を取られた。語源は『易経』の「観国之光,利用賓于王」の(国の光を観る)の一節による由、大正年間にtourism の訳語として用い出されたという。「他の土地を視察すること。また、その風光などを見物すること」も再確認(広辞苑)。同時に、「風光、国の光を観る」には恐縮した。
そもそも「見る、観る」は含蓄に富む言葉 – 見物、見学、拝見、見識、意見、定見、見解から素見(ひやかし)、露見、見在もあれば、開眼 (かいげん)に至っては、新たな仏像に眼を描き入れ仏の魂を迎え入れる「開明」、「慧眼」で、仏教の「真理を悟ること」にも通じるのである。「この目で色を見たことはないけれど、私には無限の色が見えます。手で触れ、耳で聞き、香りをかぐ、それが私にとって“ものを見る”ということです」河野氏も語る(NHK放映 2013/12/15)。
他事では全くない!わが教会でも毎主日礼拝で派遣の部に入ると直ぐに「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と声高らかに歌うではないか(ヌンクディミティス・新共同訳)。それに「一国の光を観る」どころか、神の国をパンとぶどう酒の聖餐において、十字架の主イエスのからだと血として「いま、ここで」見て、触れて、飲食する。しかもお恵みがこの身に満杯になり「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜わるように」の派遣の祝福で出立する(民数記 6:24-26)。
これが「むさしの」の現実だ!かねて各個教会を避けて地域会衆を唱えているが、会衆とは「人に会う集団(会見、引見、謁見)」であり、教会は面会場だ。神と復活のイエス・キリストと、牧師、兄弟姉妹たちと面と向き合う会合(見て、触れ、聴いて、会話し、飲食し、交わり、元気に再出立する群れ)である。
このコングリゲイションのCが、今度の年間主題「キリストへの専心(コンセントレイション)」のCの内実であるように!