小教理問答クラスの実際 〜 むさしの教会の事例(2)〜   大柴 譲治

私の小教理クラスは原則として隔週ペースで90分セッションを6回行います。

最初は①「傾聴のセッション」。受洗・堅信・転入希望者に自らの(特に霊的な)歩みについて語ってもらい、それをひたすら傾聴します。「聴く」とは「耳を十四の心をもって働かせること」ですが、旧字体では「聽く」と書きます。それは「耳と目(四ではなく目が横たわっている)と心を一つにしてそれを十全に用いて、王(の声)に向かい合う」という意味なのです。

「み言の職人」としての牧師は「公での説教」と「聖礼典の執行」を職務の中心に担っていますが、そのためにもまず「聖書に聽く」ことが求められます。実は全キリスト者にとって大切なことは「神の声に聽く」ことなのです。
私たちは言葉を声として受けとめます。声とは言葉を乗せる器であり車です。沈思黙考している時にも本を黙読している時にも、私たちの頭の中では声が響いています。思考とは確かに「自己内対話」(丸山眞男)です。頭の中で多くの声が響いている限り、外からの声は入ってきません。

「聽く」ためにはまず「自らの頭の中の声を沈黙させる」必要があります。「無心になる」必要がある。日本語には「耳を澄ませる」という美しい表現がありますが、それも頭の中の声を消し、主客分離の次元を超えて「ひとすじの心」を意味するのでしょう。「花はなぜ美しいか。ひとすじのこころで咲いているからだ」(八木重吉)。

「祈り」もまた同様であります。このセッションの最後には、ルーテル教会の『一致信条書』に信仰告白が九つあることに言及します。そこに含まれる九つとは、使徒信条(毎週の礼拝で用います)、ニケア信条(聖餐礼拝で用います)、アタナシウス信条という三つの古典信条、シュマルカルデン条項、小教理問答、大教理問答という三つのルター自身の文書、そしてアウグスブルク信仰告白とその弁証、和協信条です。『小教理』には「使徒信条」が収められていますから、そこでは同時に二つを学ぶことになります(一石二鳥ですネ)。

続く「5セッション」はこうです。②「十戒」、③「使徒信条」、④「主の祈り」、⑤「洗礼と聖餐」、⑥「むさしの教会の構造と信仰生活について」。第二セッションでは、「神を愛する」という「最初の三つの戒め」と「隣人を自分のように愛する」という「後半の七つの戒め」の二つの部分に分かれた(「二枚の石の板に書かれた」)構造に触れ、「第一用法(市民的用法)」、「第二用法(教育的・神学的用法)」、「第三用法(規範的用法)」について言及した上で個々の戒めの具体的な説明に入ります。特に重要な「第一戒」では、「信仰」とは「神と私との関係」を表す「関係概念」であることを繰り返し確認します。

そして「神との関係が破れること」を「罪」、「神との義しい関係にあること」を「義」、「自己偶像化・自己神格化欲望」を「真の神を神としない罪」の根源にある「罪の力」として説明しています。「我思う(cogito)」と「我信ず(credo)」の「我」は、同じ「我」であっても、前者はどこまでも「モノローグ(独白)的な我」にすぎないのに対して、後者は「神」との関係の中に置かれた「ダイアローグ(対話)的な我」です。

ブーバーの表現で言えば、前者は「我-それ」の「我」、相手をどこまでも自分の「経験利用の対象」としてしか見ようとしない「孤立した我」であり、後者は「我-汝」の「我」、相手に対して全存在をもって「汝よ」と呼びかける「人格応答的な我」ということになりましょう。「悔い改め(メタノイア)」とは、自我が肥大化した「モノローグ的な我」の頑固な「殼」が打ち砕かれ、「永遠の汝」たる神からの「汝よ」という人格的な呼びかけに答えて「はい」と呼び返す、人格的な応答関係に入るということを意味しています。神の恩寵の出来事です。(続く)

むさしの便り5月号より