十戒には「わたしのほか、何ものをも神としてはならない」という第一戒が全体を貫いて通奏低音のようにずっと響いていますが、それをルターは「わたしたちは神を畏れ、愛すべきです」という言葉を反復する中に示しました。第二戒では神をも自分の経験利用のために用いようとしている私たち人間の自己中心的な生き方に触れながら、私たちは神から常に「汝よ」と人格的に呼びかけられている存在であることに言及します。「安息日を聖とせよ」という第三戒では「特定の曜日」の重視ではなく「日毎の悔い改め」と「聖書の聖言に立つ」ことの重要性について触れ、「父母を敬え」という第四戒では両親や目上世代に対する敬愛を説きつつ「神の代理」として子世代に神を正しく指し示す「親世代の責任と使命」とについても言及します。「殺すな」と命じる第五戒ではすべてのいのちは「神の主権」の中にあり、いのちは「授かりもの」であるよりは「預かりもの」であると語ります。安楽死や自死、臓器移植、出生前診断などの課題の前で十戒(キリスト教倫理)が持つ現代的な意義は大きいのです。「姦淫」を戒める第六戒では神が定めた「結婚」(夫婦は血縁関係ではなく、家族の中で唯一の契約の関係です)を通して家族が神の祝福に与ることの意味について共に考えます。この部分で「性的少数者」への基本的な姿勢についても触れることもあります。「盗むな」と命じる第七戒は、神に所属するものを人間が私物化してはいけないと、「偽証」を戒める第八戒や「むさぼり」を禁じる第九戒と第十戒では私たちの罪の根には「我欲」があることに触れます。いずれにせよ、十のうち八つは「〜してはならない(Do not〜)」という否定命令であることに人間の現実がよく表れていると思います(第三戒と第四戒だけが肯定命令)。「目には目を、歯には歯を」という「同害報復法」もそうですが、禁止命令がないと人間の怒りと憎悪はブレーキが効かなくなってエスカレートしてしまうということなのでしょう。
「使徒信条」は「わたしは父なる神、(御子なる神)イエス・キリスト、聖霊(なる神)を信じます」という三つの段落に分かれていますが、ルターはそれを「創造について」「救いについて」「聖化について」というように内容で区分しています。第二段落が一番長いことからもキリスト教の中心がイエス・キリストにあることが視覚的にも分かります(第一段落は一行、第三段落は二行ですが、第二段落は五行あります)。キリスト教はユダヤ教やイスラム教のような「神教」ではなくて、どこまでもキリスト中心の「キリスト教」です。私たちにとって最も短い信仰告白の言葉は「イエス・キリスト(イエスはキリスト)」か「キリスト・イエス(キリストであるイエス)」という一言になりましょうが、そこから膨らんで使徒信条などの信仰告白が成立してゆきました。もちろん私たちキリスト者にとっても、例えば登山で「ご来光(日の出)」など大自然の美しさに感動したり音楽や美術等を通して芸術の崇高さに深く感銘を受けることはあるでしょうが、しかしそれによって私たちが「救われる」わけではありません。私たちの「救い」「罪の贖い」のためにはどこまでも「イエス・キリスト」の「受肉」と「十字架」と「復活」という「出来事」が必要だったのです。聖書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とある通りです(ヨハネ3:16)。
(以下は次号に掲載させていただきます。)
むさしの教会だより 2015年7月