宣教91年目のスタートラインで − 「むさしの」歴史の担い手の一人として − 石田 順朗

今年は、戦後70 年を始め、実に数々の「節目」の年である。

折しも「周年」の表現が少なくなったのに気づく。兵庫県では、阪神淡路大震災遺族の方々への配慮で周年の不使用を決めたと聞く。慶事で用いられることが多いとて、被災の場面には違和感を覚える人が増えてきたからだという。メディアでも「00年」と表現するのが多く「周年」は殆ど見当たらない。

周(あまね)は、漢字として古くは「周〈日本の古語ではシユウ〉」で、語義は広範囲にわたる。あまね・し〈遍し〉から、めぐる、まはる、まはり、こまやか、ひろく親しむ、いたりて、など。時間的には「まる一年」で、ある物事が始まってから、その数だけの年が過ぎたことを表す。語彙的には何ら異議なく、わが教会の「90周年」も「宣教開始以来まる90年を経過した」ことで、まことに記念すべく喜びを分かち合う時となる。

ただ、満90年の日付(10月4日)で、早速に「91年目の初日を迎えること」を確と心に留めるようにしたい — 殊に、今日、「歴史認識」の渦巻く唯中にあって。

「時とは何か、誰も問わないならわたしはそれを知っている。しかし誰かが問うて、これに説明を加えようとすれば、わたしは何ひとつ知らない」。四世紀の神学者アウグスティヌスの言葉だが(『告白録』より)、運勢占いでは「過去に生きるか、それとも今現在を生きるか」を問い、過去や未来の時間に逃げ込むのは「現実逃避」。それに「風化」のこともある — NHKが戦後70年に当って実施した世論調査で、原爆が投下された日付について、正しく答えられなかった人がそれぞれ全国で7割程度だった。

「今の積み重ねが過去、今の積み重ねの先に未来」を見据えるポジティブ・シンキングでは「まさに自分が生きている今」を大事にする。熟考を促される。肝心なのは「今の私たち自身」だ。まず、われわれ、むさしの教会員一人びとりである。

キリストにおいて世に来臨された神は「時は満ちた」と宣言。無意味に過ぎ行く時が意味を持つようになった。教会の主、キリストなしでは「千年といえども、夜の一時にすぎず」だったが、「キリストと結ばれる人は、新しく創造された者。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる」のである。

「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」を満喫する絶好の機会が訪れる。