たより巻頭言「心の琴線」 大柴 譲治

「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば  秋の美しさに耐へかね 琴はしづかに鳴りいだすだらう」 (八木重吉『貧しき信徒』より「素朴な琴」)

日本語には「心の琴線に触れる」という表現がある。広辞苑によると「琴線」とは「感じやすい心情。心の奥に秘められた、感動し共鳴する微妙な心情」を意味する。響いている楽器のそばにもう一つの楽器を置くとそれは「共鳴」して鳴り始める。確かに人の心もそのように共鳴し合うように作られているのであろう。時は5月。少し季節は異なるが八木重吉の詩を思い起こした。私たちは心の中に素朴な琴を預かっているのだ。この心の琴が交響し合うとき、私たちは生を実感し、もののあわれを感じて落涙する。

先日の飯能集会である方から味わい深い言葉を聴いた。「子どもは三才までに一生分の親孝行をしてくれる」という言葉である。その方は可愛いお孫さんに久しぶりに接してその言葉を思い起こされたとのことであった。言葉というものは不思議なものである。静かな湖面に投げ入れれらた小石が大きな波紋を起こしてゆくように、言葉によって私たちの心の中には深い波紋が拡がってゆく。その波紋は心の底に眠っていた多くのイメージを喚起してくれる。私も長く忘れていたが子どもたちの成長の様々な場面を思い出した。そのいたいけない笑い声や笑顔がどれほど多くの場面において無力な親である私たちを力づけてきてくれたことか。彼らは知らないであろうが、その存在自体が既に大きな親孝行なのである。

「親孝行したい時には親はなし」と言われる。子どもの側からの悔いを表す言葉であろうが、事はそれだけではない。実は子どもは三才までにもう一生分の親孝行をしてくれているのである。そう思うと、さわやかな5月の風が心の中を吹き抜けてゆくような気がするのは私だけであろうか。心の琴線に触れる言葉との出会いであった。


(2005年5月号)