「時よ止まれ、お前はそのままで美しい。」(ゲーテ『ファウスト』より)
真に心揺さぶられるものとの出会い。そこにこそ人生の神髄があるように思える。ファウストは考えた。「時よ止まれ、お前はそのままで美しい。そのように感じられるような至福の瞬間を味わうことができれば、私は自分の魂を失ってもよい」と。おそらく私たちも心のどこかでそう思っている。空の空、空の空、いっさいは空であるこの世の中にあって、そのような至福の瞬間が存在するとすれば、そこでこそ私たちは生の真の意味を知るのであろうから。
人生における師との出会いというものはそのようなものの一つであろう。私にとって今年の6月24日に75歳で天に召された牧師・高倉美和先生との出会いがそれであった。私たち夫婦は今からちょうど20年前、熊本の神水教会において高倉牧師夫妻の指導の下で7ヶ月のインターンを体験した。先生は音楽を愛し、山を愛し、絵を愛し、温泉を愛された。一人ひとりの人間の存在をどこまでも大切にされる高倉先生の温かい生き方を私たちは忘れることができない。
ある時、確か牧師会の集まりだったと思うが、出席者の一人の咳が止まらなくなった。白熱した議論の中で私の意識は議論そのものに向けられていてそれに気づかなかったが、先生は違っていた。やおら立ち上がってどこかに行かれたかと思うとコップに水を持ってきてその人に差し出し、「大丈夫?」と聞かれたのである。大河ドラマの中で、柳生石舟斉が剣の稽古をした後で武蔵に「その時お前は風を感じたか。鳥の声、水の音が聞こえたか」と問う場面が印象に残っているが、同じことを私は高倉先生から学んだように思う。一人ひとりの存在をどこまでも大切にすること、どのような状況にあってもそのことを忘れてはならないのだということを。
死の五日前まで人々に神のみ言葉を教えるために全力を注がれた高倉先生。病床にあって点滴をしながらその準備をし、病院から車イスで会場に通われたとお聞きした。「這ってでもそこに行くと言う主人には鬼気迫るものを感じました」という矩子夫人の言葉を聞きながら私は思った。先生はその時、生と死を越えた至福の瞬間を味わっていたのだ。そこでは時間が止まり、永遠の今が現存していた。インマヌエルの原事実!
今はアドベント。主の到来は近い。
(2004年12月号)