たより巻頭言「他者に愛を、自己に自由を」 賀来周一

信仰者の倫理は、愛と自由であると言われる。愛とは他者に対する関わりの態度のことである。自由とは自分自身の見極め方のことである。

聖書には敵を愛せよと書いてある。敵に善いことをせよとは書かれていない。善いことをするとは、自分がこれは善いことだと自分の思いのなかで行うわざである。だからどこまでいっても自分の思いを通すことができる。しかし愛するとなるとそうはいかない。愛することの最初の動機は己の思いから出発する。しかし愛した結果は、自分の思いを離れている。どのような結果が招来するか予測がつかないのである。動機は主観的でも結果は客観的なこととして起こるといってもよいかもしれない。要するに愛した結果、自分の意に反したことも起こり得るということである。

愛を完成するには、自分の意に反した結果であっても、それを統合する態度がなければならない。いわば成熟した態度である。敵を愛しても、相変わらず相手は敵なのだから、思ったようにはならない結果がそこにある。その結果を包み込む統合性がなければ敵を愛したことにはならない。そこにはきっとボロ雑巾のような自分がいるのであろう。信仰者にはそのような成熟性がないと、ただたんに善いことだけで終わってしまって、愛したことにはならない。

主イエスはまた、「真理はあなたがたを自由にする」と言われる。信仰者の自由とは、自ら獲得した自由ではない。キリストから与えられた自由である。ルターはその自由をもって「キリスト者はすべての者の上に立つ君主であって何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に仕える奴隷であって、すべての人に従属する」と言う。あるいは「キリスト者は罪人であって、同時に義人である」とも言う。この信仰的自己理解もまた信仰者の自由をよく言い得ている。

ルターはまたヴィッテンベルク大学の同僚のメランヒトンに言う。「フィリップよ、私たちがこのヴィッテンベルクのビールを飲んでいる間にも神の言葉は前進する」と。これをもって堕落であると顔をしかめる者、またこれをもって安心してビールが飲めると妙に納得する者は、まだ神の言葉による自由からまだ遠いと言わねばならない。


(2004年7/8月号)