たより巻頭言「神の声/息の力」 大柴 譲治

「『光りあれ』 すると光があった。」(創世記1:3)

1月25日、主日礼拝の最後で伊藤早奈先生より祝祷をいただいたときに私が想起したのがこの創世記の言葉であった。「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜ります。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」 この「アロンの祝福」(民数記6:24-26)として知られている祝祷を、一言ずつ大切に、丁寧に宣言してくださった伊藤早奈先生の声の中に深い力を感じたのは私だけではなかったであろう。そこには「息」そのものの持つ力があった。私たちは人の息の中に確かに神の息を感じたのだ。

「言葉を発する」ということは「息を発する」ということでもあろう。息を発することなしに「光あれ」とは言えない。声を発するためにはまず息を吸わなければならない。吸った息を吐く時に声帯が震えて声となる。昨年のクリスマス、風邪を引いて三日間声が出なくなった。生まれて初めての体験である。声の出なくなったザカリア(ルカ1章)の気持ちが少し分かったような気がした。教会員の中には昨年、咽喉のポリープを取り除く手術をしてしばらく声を出せない方もおられた。病気などで声を奪われたり、うまく発語できなくなることの辛さを思う。自分の思いを相手に伝えられないことは本当に辛く悔しい。声を発することができること、歌を歌うことができるということは何と幸せなことであるか。

相手に言葉をかけるということは相手に息を吹きかけるということでもある。そう考えると、創世記2:7の言葉がさらに深い意味をもって迫ってくるように思う。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」ここでアダムは声をかけられたのである。太初にアダムは神の声をその耳で聞いたのだ。先月も触れたが、最近の携帯電話では耳ではなく骨伝導で聞くというものが出たそうである。騒音の中でもよく聞えるのだという。アダムも耳ではなくて鼻で、つまり骨伝導で神の声を聞いたのであろうか。私たちの魂の中にはその太初の声の記憶が刻印されてあるのではないのか。神の息吹を吹き入れられ、神の声を聞いた時、「人は生きたものとなった」。この声の記憶を呼び覚ますために私たちは旅を続けているのかもしれない。


(2004年 4月号)