復活の主と出会うということ  浅野 直樹

聖書箇所:ルカによる福音書24章13〜35節

人生って、なかなか思うようにいかないものですよね。48年間生きてきた中で、私が悟ったことです(偉そうですが…)。でも、人生って「本当に不思議だ」とも思わされてきました。今、こうして皆さんを前にして説教をしていること自体も不思議でなりません。昨年の11月までは、こんなことはつゆほども考えていませんでしたから。それが、本当に不思議な導きで、こうして皆さんと出会った…。皆さんと共に教会生活を…、信仰生活を送らせて頂ける…。それは、まさに筋書きのないドラマ(神さまの筋書きはあるのでしょうが…)だと思います。

しかし、それ以上に私にとっての最大の不思議は、イエスさまとの出会いでした。本当に不思議と三十数年前(中学3年の時でしたが)にイエスさまと出会わせていただきました。この出会いがなければ、今、私はここに立っていることも、皆さんと出会うこともなかったでしょうし、それどころか、ここまで生きてこられたかどうかも怪しいものだと思っています。


今日は残念ながら、皆さんに私の人生の全てをお話しすることはきませんが、48年という中に私にもそれなりの人生がありました。辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、…正直、死んでしまいたい、と思った時期もありました。しかし、何度も何度も、乗り越えさせて頂いた、立ち上がらせて頂いた、道を正して頂いた、そう思うのです。年齢を重ねるごとに、経験を重ねるごとに、いろいろな壁にぶち当たるごとに、「信仰を持っていて…、いや、与えられて本当に良かった」と思わされてきました。まさに「不思議な恵み」です。そんな「不思議な恵み」の姿が、今日の日課にも描かれているように思います。

 今日の箇所は「エマオ途上」とも言われる有名な物語です。二人の弟子(12弟子以外の)がエルサレムからエマオに向かう途中、復活のイエスさまに出会うのですが、この二人にはそれがイエスさまだとは分からなかった、というのです。
 今日の箇所のポイントの一つは、この二人が「弟子」である、ということだと思っています。イエスさまを知らない、イエスさまを信じない人々ではなくて、イエスさまを知っている、信じている、イエスさまに従っている弟子であるこの二人が、復活のイエスさまのことが分からなかった…、気付けなかったからです。この二人もおそらく不思議とイエスさまに出会うことができたのでしょう。イエスさまの不思議な魅力に惹かれて弟子になることもできたのです。

19節にはこう記されています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。……わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と言うほどに強い期待感を持っていました。しかし、後の箇所をご覧いただければ分かるように、十字架(苦難の意味)と復活のことについては全く分かっていなかったのです。ここに、なんだか私たちの姿と重なるところがあるように思わされるのです。もちろん、私たちの多くは受洗前教育を受けてきたはずです。堅信のための準備教育も受けてこられたでしょう。イエスさまの十字架の意味も、復活についても教え込まれてきました。だからこそ、信仰の告白もできます。

しかし、それらが『何よりもこの私のためであった…』ということになると、なんだか「ぼんやり」「おぼろげ」だったようにも思うからです。それが私たちの偽らざる現実の姿です。聖書を読んでいきますと、度々このような情けない弟子たちの姿を目撃致しますが、紛れもなくこの私たちも、そんな弟子たちに連なる者であることを思わされるのです。

 その弟子たちに、復活のイエスさまは近づいて来られます。確かに、その「鈍さ」を叱責されますが、それでもイエスさまは、その情けない弟子たちと一緒に歩まれるのです。ここに、もう一つのポイントがあります。やはり、イエスさまなのです。弟子たちではありません。弟子たちの頑張り、努力ではありません。弟子たちの聡明さでもありません。心が鈍く、すぐそばにおられる…、いいえ、すぐ隣におられる復活のイエスさまにも気づけなかった弟子たちにご自身を示されたのは、他ならぬイエスさま自身だったのです。なぜならば、イエスさまが人を…、私たちを救いたいと願っておられるからです。

私たちに復活の命を、永遠の命を与えたいと願っておられるからです。死に打ち勝つ…、たとえ死の床に伏すようなことになっても、絶対の平安・安らぎを、希望を与えたいと願っておられるからです。イエスさまこそが、私たちに熱心なのです。私たちは弱く、また鈍いのかもしれない。すぐに恵みを忘れてしまうような者かもしれない。しかし、イエスさまはこの私たちを見捨てることができないのです。諦めることができないのです。だから、隣を歩き続けられる。気づかれなくても、共に居続けてくださる…。そして、そんなご自身に、その存在に、その恵みに気づかせていってくださるのです。

 弟子たちは、「それがイエスさまだ」といつ気付いたのでしょうか。聖書の言葉が解き明かされ、パンが割かれたとき…、聖餐のとき、つまり、礼拝の場においてです。正直、いつもいつも礼拝の場でイエスさまを感じる…、出会えるということではないのかもしれません。それは、私自身も含めた牧師たちの大いに反省すべきところでしょう。それでも、イエスさまはここで働かれます。牧師の口を通して、用いて働かれます。聖餐式において働かれます。

「それがイエスさまだ」と分かる、分からされる瞬間がやってきます。目が開かれる…、復活のイエスさまと出会う瞬間がやってきます。その恵みの幸いに気づかされる瞬間が必ずやってきます。十字架と復活の意味がますます分からされていきます。いいえ、ここにおられる皆さんご自身がそれを体験してこられたはずです。ですから、このむさしの教会は90年の歴史を刻んでくることができたのでしょうし、今、皆さんがここにおられるのだと思うのです。

 是非、これからも、この私たちの礼拝の場が、いよいよイエスさまが働いてくださり、み言葉によって「心が燃やされるような」、復活のイエスさまと出会っていけるような、そんな祝福された場、時となっていけるように、不束者ですが皆さんと一緒に心を合わせていきたいと願わされています。
2016年4月3日 復活後第一主日礼拝