たより巻頭言「桜吹雪と神の声」 大柴 譲治

「あなたはわたしの目に価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)

教会は桜満開。道行く人が息をのみ、その足を止めて見上げてゆく。学びや仕事の新年度を花満開の祝福の下に始めることができるということは、考えてみると希有なことでありすばらしいことでもある。昨年は例年よりも12日も早く桜は開花したが今年は例年より一日早いとのこと。一週間前にはまだ寒かったのに、アッという間に咲き始めた。この桜のパッと咲いてパッと散るというあり様は、私たち日本人の美意識や死生観に大きな影響を与えているのであろう。「願わくば花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」と歌ったのは西行法師だった。確かに桜は、愛する者たちの生と死とを私たちに思い起こさせる。永遠とこの一瞬との関係を想起させてくれるのである。

生命が巡り来ることの不思議さを想う。この後、桜はやがて葉桜となり、萼が山のように落ち、葉を青々と茂らせて夏を迎える。最初に花が咲いて次に葉が出るということは考えてみれば不思議なことだ。それは葉を茂らせた後に花を咲かせ実を実らせてゆく草花とは異なっている。晩秋の頃、美しく色づいた落ち葉を降らせる中で冬を迎えてゆく。11月のバザーのテントに葉が積もってゆく。教会の一年のリズムが桜の木と共に進んでゆくのである。教会にある5本の桜の木を通し、四季折々の味わいを豊かに楽しめることを感謝したい。人が自然と一体であり、その一部であるという事実を桜は私たちに想起させてくれる。

今日は雨。教会の車は散った桜の花に装われ、これまた見事な「花車」となっている。この花車を運転して街を走ると、道行く人たちがこちらを指さして笑顔をこぼす。恥ずかしくも誇らしいような気持ちになる。そのように桜の花は不思議な魅力を持っている。私たちの心を開き、不思議なかたちで心をつなげてゆくのだ。マルティン・ブーバーは『我と汝』の中で人が真の出会いを体験する領域に三つあると語った。すなわち、自然、人間、精神的実在(芸術など)の三つである。個々の出会いの延長線上(向こう側)からは「永遠の汝」たる神の「我」に対する「汝よ」という暖かい呼びかけの言葉が響いてくる。その意味で、この桜の木もまた、創造主なる神の栄光とご臨在とを現していよう。桜吹雪の中に神のみ声が響く。「あなたはわたしの目に価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。それゆえにこそ、み子なる神は十字架へと歩まれた。