たより巻頭言「木の祈り」 大柴 譲治

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。  (エレミヤ17:7-8)

 コツコツと木彫りの人形を造り続けてきた方がおられる。長崎出身の池田照さんである。高校時代に長崎ルーテル教会で故岡正治牧師より受洗。岡先生は、朝鮮人被爆者の調査など、「非所属」長崎市会議員として平和運動に熱く関わり続けた牧師としても有名である。池田さん自身も高校時代にはいつもデモに駆り出されていたとのことである。

 池田さんの造る像はいつも手を合わせて祈っている。私にはそれが「天に栄光、地に平和」と祈っているようにも見える。池田さん自身の被爆体験とキリスト体験がその奥底にはあるのだと思っている。その祈り像はお地蔵さんのようでもある。見ていると不思議と手を合わせたくなる。それは私の心の奥深くに宿っている日本人としての心性を呼び覚ましてくれるのであろうか。その祈り像は仏像のように半眼である。その穏やかな優しい表情を見ていると心が温かくなってくる。不思議な祈り像である。(ご覧になりたい方はこのホームページの『ギャラリー』を参照)

 池田さんにとっては彫ること自体が祈りなのであろう。池田さんは40歳から掘り始め、50歳以降は毎年個展を開いておられると聞く。「木を彫る喜びで木に生かされる私です」とある年の個展の挨拶状には記されている。もう二年ほど前になるが、それに感銘を受けた初谷通利さんが一つの作品を入手して教会に献品してくださった。玄関を入って受け付け右側に掛けてある詩編23編の木彫りのプレートである。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」

 ある時に池田さんから伺った言葉が心に残っている。「木が私を待っていてくれるんです。私が彫っているわけじゃあない。最初から木の中に像があって、私はただそれが出てくるお手伝いをしているだけなんです。彫っていると無心になります。彫ることを通して私の方が木にカウンセリングをしてもらってるんですね。」 なかなか味わい深い言葉である。

 自分を待っていてくれる存在と出会うということは大切なことである。「自分」とは自分を待つ存在との関わりの中でこそ「自分」になってゆくことができるのだから。そのようなつながりの中に自分を見出すことができた者は幸いであると思う。