たより巻頭言「母の胎」 大柴 譲治

母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。  (詩編22:10)

 「親が親としての生き方、価値観、愛情をしっかりとわが子に見せることの大切さがここにある。ことに母親の存在は誰にも代行できない。母親との間に信頼と感謝と安心を体感して初めて、子供は世界をつかみ取り、自立へと向かうことができるのだ。他人の力によって人を自立させることはできない。日常生活の中に、安心し、心から楽しめるものがあり、自分の価値を実感して満足を得られれば、人はおのずから自立するのである。守君は家族から得た信頼と感謝をもとにして、人を信じ、友を愛し、勇気をもって何事にも挑戦し、充実した人生に向かって生きていくに違いない。」(『「不登校児」が教えてくれたもの』、グラフ社)

 これは三千人を越す不登校児と関わり続けてきた姫路在住の精神科医・森下一さんの言葉である。ずっしりと重たく響く。説教の中でも再度取り上げさせていただいたが、私たちの周りに真実の絆を求めて苦しむ家族は少なくない。学校だけでなく、会社に行くことができない方もいる。その辛さは誰にも理解されず、孤独がその重荷を増し加えてゆく。生きること自体が絶望的なほどに閉塞的なのだ。

 私たちの心の奥底には確かに母親の胎内に戻りたいという願望が存するように思う。あの母体の適度な揺らぎ、あの温もりと安定した心臓のリズム。すべては安らぎの中にあった。母体と胎児とは完全な共生(シンビオシス)の状態にある。あそこに私たちのパラダイスの原点があるのではないか。そこから切り離されることは胎児にとってはいかに大きな恐怖だったことか。狭い産道を通り、窒息しそうになりながら水の世界から空気の世界へと移行する。嬰児の最初の泣き声はエラ呼吸から肺呼吸への転換を意味する。誕生とはかくも劇的な出来事なのだ。死もそうであろうか。オットー・ランクが、フロイトを引きながら、「死への恐怖と同様に、生への恐怖も存在する」と語る言葉は正しい(『死の拒絶』、平凡社)。それらは共に分離恐怖なのかもしれぬ。

 聖書は私たちに、自ら十字架にかかるほどに私たち一人ひとりを愛し、共生・共死の生涯を貫かれたお方を指し示す。それがあのステンドグラスに描かれた羊飼いキリストである。主のみ腕の中に憩う時、私たちには内的な力が与えられてゆく。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。そのようなキリストの母なる招きが私たちを捉え、そこにおいて人間再生のみ業が起こる。このお方が私の存在のすべてを引き受けてくださったからだ。然り、「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神!」