ルカによる福音書18章9~14節
はじめまして。浅野直樹です。一応、「ジュニア」という扱いになっています。
いや~、面倒なことになってしまいました。浅野先生(シニア)には随分とご迷惑をおかけしていると思っています。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は他教派で10年ほど牧師をしておりまして、その頃からルーテル教会に同姓同名の先生がいらっしゃることは知っていました(岡崎教会の頃だったと思います)。でもその頃は、自分がまさかルーテルに来るとは思ってもいませんでしたので、「へ~、そうなんだ。珍しいこともあるもんだな」くらいにしか受け止めていませんでしたが、縁あってルーテルに来ることになったために、こんなことになってしまいました。それでも、以前は教区も違っていましたので、お互いに不都合もそれほど感じていなかったと思いますが、この度、誰の陰謀なのか、はたまた神さまのユーモアなのかは分かりませんが、同じ教区に、しかも同じ教会共同体、お隣の教会に来ることになりまして、浅野先生(シニア)も複雑な思いをもっておられるのではないか、と想像しています。先日もこんな電話がありました。以前、電話で相談を受けた方のようで、どうやらインターネットで私のことを探されたようですが、するとHP(むさしの教会の)の写真と違っていたそうです。混乱気味に、一体どうなっているのか、というのです。もちろん、丁寧に説明させて頂きました。私の記憶が正しければ、浅野先生とは一回り違いますが同じひつじ年です。星座も同じしし座。同姓同名、漢字も一緒。二人で占ってもらったら、ほとんど同じ結果になると思いますが(ですから占いもあてにならないのでしょうね)、性格も、また、これまでたどってきた人生も全く違っているでしょう。浅野先生はまじめ、と聞きますが、私はちゃらんぽらんのいい加減な人間ですから。せめて、浅野先生が私と間違えられて悪い印象で見られるようなことにはならないように、謹んで励んでいきたいと思っています。
変な話を長々としてしまいましたが、「初顔合わせ」ということですので、お許し頂きたいと思います。
さて、本題ですが、今日の箇所はお分かりのように、イエスさまが語られた譬え話の一つです。この譬え話は、数ある譬え話の中でも非常に分かりやすい譬え話の一つだと思いますが、少し注意が必要ではないかと思っています。それは、『安易な評価』ということです。ここではファリサイ派と徴税人が登場して参ります。聖書を読んでいきますと、このファリサイ派の人々は常にイエスさまと衝突する人々として描かれていますので、私たちにとっては印象の良くない人々として映っているのかもしれません。それに対して徴税人はマタイやザアカイに代表されるように、確かに当時においては否定的な見方がされていたのかもしれませんが、どことなく憎めない人…、むしろ律法、律法という堅苦しい社会の中で彼らこそ犠牲者だったのではないか。社会から差別され、蔑まれてきた可哀そうな人たちなのではなかったか。だから、イエスさまはそんな彼らの隣人となり、彼らを救い、自由にされたのではなかったか…と、どちらかと言えば好意的な印象を受けているようにも思います。「逆差別」というのも言い過ぎかもしれませんが、どうしても弱い立場だった人々の肩を持ちたくなるような感情も湧いてくるからです。そんなこともあってか、私たちにとっては、この譬え話はむしろ何の抵抗感もなくすらっと読めてしまうのかもしれない。そうだ、そうだ、その通りだ、と共感できるのかもしれない。確かに、そうだと思います。しかし、単純に両者をそのように色分けできるのか、とも思う。律法を一生懸命守ろうとした人々が悪者で、律法も守らず、自分勝手にいい加減に生きてきた人々が、果たして本当に善人なんだろうか。かえって、後者(徴税人)に好意的な私たちは、どこかでこの徴税人や罪人と言われている人々を隠れ蓑にしながら、律法を守ろうとしない、律法を蔑ろにしている自分を正当化し、罪人であることに安住するために、都合よく利用しようとしているところがあるのではないか。そんなふうにも思う…。
皆さん、考えてみてください。身なりもしっかりしていて、まじめで間違ったこともせず(倫理・道徳面にもしっかりしている)、神さまの戒めに一生懸命に生きようとしている人と、権力を傘に、不当な取り立てをしては私腹を肥やし、贅沢な羽目を外した生活をしている人と、どちらと付き合いたいか。どちらに好感が持てるか。おそらく、私たちの目の前にこの二種類の人が現れたのなら、断然前者の方に好意が向くのではないでしょうか。ですから、単純にファリサイ派のような人がだめで、徴税人のような人が良いということではないはずです。逆に徴税人の方が高ぶっていれば低くされるでしょうし、ファリサイ派の人々がへりくだっていれば高められるでしょう。当然、逆もありうるということです。問題は「高ぶっているか」「へりくだっているか」だからです。しかし、それでも、やはりこの譬え話に「問題あり」としてファリサイ派が登場してくるには意味があるのです。9節でこのように書かれているからです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」。これが、ファリサイ派の人々の問題なのです。
まじめで、努力家で、戒めを守ることに一生懸命でも、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下」すようでは、やはり本質がズレてしまっているからです。しかも、この「うぬぼれ」と訳されている言葉は、「自分自身を頼りにしている」と訳した方が良い、と言われます。もともとの意味がそうだからです。ですから、この譬え話に登場してくる、いいえ、実際にイエスさまがこれまで接してきたファリサイ派の人々の問題点とは「自分の正しさにこそより頼んでいる」ということなのです。だからこそ、彼らの祈りは自分の正しさを羅列するものになるのです。「他人を見下す」ことも非常に問題ではありますが、しかし、それは、「自分の正しさに頼る」結果でしかありません。その問題の本質は、「自分の正しさこそ(自分の努力、頑張り、熱意の結果)頼りになるものなのだ(結局、「自分を頼る」ということでしょう)」との信仰理解なのです。
先ほど、この徴税人たちを律法を守れない自分たち、私たちの正当化のための隠れ蓑にしてはいまいか、と問いました。つまり、恵みがあるのだから律法などどうでもよい、という言い訳にしていないか、ということです。それに対して律法を守ることの大切さを説いているのが、今朝の旧約の日課でした。神さまは戒め、律法を守ることを求めておられます。それは、今日においても、尚そうでしょう。それが、神さまの思い、心です。しかし、今日の日課では、その先の思い、心が記されていました。申命記10章13節:わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。神さまは単に、闇雲に、戒め・律法を守ることを求めておられるのではないのです。私たちの幸せのためです。私たちが幸せになるために、幸いを得るために、戒め・律法を守ることを求めておられるのです。
では、その戒め・律法とは何か。一言でいえば、「愛に生きる」ということでしょう。神さまが人を、私たちを愛されたように、私たちもまた愛に生きてほしい。愛に生きることによって幸いを得てほしい。幸せになってほしい。これが、神さまが戒め・律法に込められた思いでした。しかし、残念ながらファリサイ派の人々は、そんな神さまの思いを掴みとれなかった。かえって、律法を守ることを、自分の正しさを打ち立てるために利用しようとした。自分の正しさこそが、神さまの恵みを引き出す、愛を引き出す「頼るべきもの」と考えたからです。しかし、そうではないのです。そもそも、神さまは恵みを、その愛を注いでくださっているのです。幸せを願うのが、まさにそうです。だからこその、戒め・律法なのです。もし、そのことをしっかりと受け止めてさえいれば、彼らは自分の正しさに頼ることもなかったし、自分よりも未熟な、不熱心な、欠けの多い人々をことさら見下すこともなかったはずです。この神さまの思い、心をはき違えてしまった熱心さが、彼らの罪となってしまいました。
しかし、私はこうも思うのです。私たち日本人キリスト者にとっての問題は、実は前者よりも後者、この徴税人の姿をはき違えていることにあるのではないか、と。一見すると、日本人キリスト者は、前者のファリサイ派の人々よりも、後者の徴税人に近いように思います。よくこんな言葉を聞くからです。「わたしは罪深い者です」「私なんて全然だめです」「自分が救われているなどとは思えません」「不信仰者の私なんか天国には行けないでしょう」。うつむきながら、自信なさげに言われる…。これらは果たして、ここで言われている「へりくだり」なのでしょうか。何度も言いますが、ここでの問題は「自分(の正しさ)を頼る」ということです。
つまり、何を頼るべきか、ということです。ファリサイ派は何度も言っているように「自分」でしたが、この徴税人にとっては、頼るべきは「神さまの憐み」でした。この神さまの憐みに一心により頼んだ徴税人が「義」とされたのです。つまり、先ほどのように、自分はダメだ、罪人だ、自信がない、といっている私たちは、では、本当に神さまに依り頼んでいるのか、ということです。私はどうも、そうではないように思えてならないのです。結局は、私たち(日本人キリスト者たち)も自分を頼りにしているに過ぎないのではないか。だから、相変わらず自信なさげに、自分はダメだなどと言っているのではないか。結局、へりくだっているようには見えるけれども、その本質は、むしろこのファリサイ派の方に近いのではないか。そんなふうにも思えるのです。
ある解説を読みますと、イエスさまはここに登場してくる徴税人や罪人、娼婦などを自らの罪を悟り、へりくだった者として、高く評価していたとありました。確かに、そうかもしれません。しかし、もっと大切なことは、イエスさまを受け入れたかどうかです。この両者の決定的な違いは、そこにこそあるからです。何よりもイエスさまを頼りにする。ここに正しい「へりくだり」の姿勢があるのではないでしょうか。
もっと自信をもったらいい。私たちの幸せを願うイエスさまが必ず救ってくださるから…。罪を赦し、罪の縄目から解放してくださるから…。そして、私たちの幸せを願う神さまの戒めに従ったらいい。愛に生きたらいい。そして、愛に生きられない自分を知ったら、また神さまの前に、素直に悔い改めていったらいい。どうぞ、あなたの愛に生きられないこの私を憐れんでください、と神さまを頼ったらいい。そして、またイエスさまの恵みをいただいて、晴れやかに、どうどうと、赦されているとイエスさまを頼って生きたらいい。また…、何度も…。それが、私たちの「へりくだった」人生なのです。
2016年10月23日 聖霊降臨後第二十三主日
礼拝説教(市ヶ谷教会—講壇交換)
むさしの便り12月号より