『夜と霧』で有名なオーストリアの精神科医ヴィクトル・フランクル(1905−1997)は、<人は意味なくして生きることはできない>という言葉を残したことで有名である。同書は、霜山徳爾によって邦訳(1956年)が出されたが、1977年フランクル自身によって改訂され、池田香代子による新訳(2002年)が出ている(いずれもみすず書房)。
同書は第二次大戦の最中、ユダヤ人強制収容所における絶望的な状況の中を生き抜いた人たちは、如何にして命を全うしたかを綴った記録である。彼自身も1941年から45年までの収容所で過ごし、自ら経験したこと、また収容所内で起こった出来事を可能なかぎり断片的なメモに記し、45年4月米軍によって解放され、ウイーンに帰国した後、1946年『夜と霧』にまとめ上げた。同書は発刊と共に注目され、希望と苦悩の中に生きざるを得ない人々に光を与えた著作となった。また精神科医でもある彼は、この強制収容所の経験を通して、実存分析療法(ロゴセラピー)という心理療法にまで完成させ、生きがいを失った人々に再び希望を与えたことでよく知られている。
彼の考え方は、単に理論を開発したというのでなく、飢えと死が身近に迫る過酷な強制収容所において、自らの置かれた状況に意味を見出した者のみが命を全うしたという事実に基づいている。考えてみれば、人はわたしたちも含めて意味のないところに身を置くことはない。意味のないところに身を置けば、生きていても仕方がないと思うであろう。言い換えれば、人は生きるためには意味を必要としているのである。彼の著作に『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)があるが、たとえ、絶望的な人生が目の前に広がっていたとしても、その状況そのものに意味を見出すならば、なお、一歩前に向かって進む自分を発見するということをその本の中で強調した。
しかし、フランクルは絶望的な人生の状況に対して、人が自分の側から問いかけ、そこにどのような意味があるかと期待をしても意味は発見できないと主張する。むしろ、自分が置かれた状況そのものが、自分に何を語りかけているかに耳を傾けないかぎりそこに意味を発見することはないというのが彼の基本的な主張である。旧約の哀歌3章28節に「軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」とあるように、状況が如何に絶望的であれ、絶望そのものが語りかける答えに静かに耳を傾けることで、そこにどのような意味があるかを発見する。
言い換えれば、置かれた状況に対して、自分という存在はあくまで脇役に撤し、状況が如何に絶望的であれ、その絶望そのものに主役の座を譲り渡さない限り、意味を発見することはないということである。意味は向こう側から来るといってよいであろう。この姿勢はまことに信仰的であると言える。信仰者の生き方もまた、自分はさておき、何よりもまず神の御心は何であるかに耳を傾けることから始まるからである。 (むさしの教会元牧師)
《 折々の信仰随想 》
キリスト教カウンセリングセンター理事長
むさしの便り12月号より