たより巻頭言「打ち砕かれた人間性」 大柴 譲治

 「絵はやっぱ、最後は人間性じゃのう」。かつて広島平和セミナーに関わった時に伺った『原爆の図』の作者・丸木位里画伯の広島弁である。「最後は人間性」とは、なるほど含蓄のある言葉である。見えないものを鋭く見抜く眼を持つ人の前ではすべてがそこに帰着するのであろうか。

 考えてみれば、個々の作品のみならず、人間の生き方自体、コミュニケーション自体も最後はその人を表している。人は意外に鋭く相手の人間性を見抜くのではないか。隠そうにも隠しようがない。正直に言えば、私たちの中にはどこかに自分の浅薄さを見抜かれたらどうしようという不安がある。先の丸木画伯のような言葉を聴くとドキッとするのはそこを突かれるからだ。

 「信仰もやはり最後は人間性である」と言い換えるとどうなるか。これは違う。私たちは自らのうちに誇るべきものは何も持たないからである。誇るべきものがあるとすればそれは私たちの強さではなく弱さであろう。そこから言うならば、「信仰もやっぱ、最後は打ち砕かれた人間性じゃのう」とは言いうるかもしれない。自分が打ち砕かれた後に残るものは何か。ちょうど真珠貝の固い殼が開かれた後に真珠が輝き出るように、打ち砕かれた後に私たち自身に納められた宝が輝き出すのかも知れない。

 パウロは言った。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(2コリント4:6ー9)。

 「信仰はやっぱ、最後は人間性じゃのうて神さまじゃのう」と言いたくなる。