「初めに言があった」(ヨハネ1:1)
禅仏教者・鈴木大拙のエピソードである。大拙は夜寝るときには枕元に紙と鉛筆を用意しておいたそうな。寝ていて突如ひらめくとガバッと起きて紙に書き留めておく。何度かそのようなことがあって朝までにはかなりの枚数のメモがたまっている。それはそのまま印刷に回されて本になったそうである。問われると大拙はさらりとこう言ったという。「わたしは何もしていない。ただ向こう側からくるものを書きとめているだけだ」と。語ることや書くことで苦労している身にとっては何ともうらやましい話である。そこでは自分を無にして、その響きに耳を傾けるというあり方が示されている。無は空ではない。沈黙は豊かな響きに満ちている(ピカート)。
ロバート・レッドフォード監督の映画『A River Runs Through It』にこういう場面があった。牧師である父親と二人の小さな息子が川辺を散歩している。父親はかがんで川石を手に持ちこう語る。「雨が地を固め、やがて岩になった。5億年も前のことだ。だがその前から岩の下には神のことばがあった。聴きなさい」と。そこで幼い兄弟は耳を澄ませてその響きを聴きとろうとする。印象的な場面である。確かに向こう側から響いてくるものがある。親は子にそれを指し示す役割をもつ。
「耳を澄ませる」という日本語の表現は美しい。透明になった耳にしか聞こえてこないものがある。思いわずらいで千々に乱れた心には届かない響きがある。「向こう側」とはどこか。それはそうとしか言えない場所、私たちの存在を越えた、時空を越えた世界を指している。それは人間に向かって「汝よ」と呼びかけてくださる「永遠の汝」たる神の側である。
礼拝に出席するということは向こう側からとどいてくる響きに無心になって耳を傾けるということでもあろう。太初から岩の下に響き続けている存在者の声が聞こえてくるかどうか。そしてそれはどのような声であるのか。全身耳となって聴いてみたい。