たより巻頭言「呼吸について(2)」 大柴 譲治

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。

 私はいびきをかく・・らしい。それも半端ではないようだ。自分では確認したことがないため立山忠浩先生(池袋教会牧師)などの言葉を信じる他ない。どうやら私の「肉体の棘」は外向きについていて人を苦しめているらしい。「私は何という惨めな存在なのだろうか。だれがこのいびきの身体から私を救い出してくれるだろうか」とパウロのように叫びたくなる。「大柴先生は昼間は穏やかだが夜になると人が変わる」とは太田一彦先生(都南教会牧師)の弁である。出張等で私にできることはせいぜい二つ。一番最後に寝るか耳栓を同室者に配ることぐらいだ。人生は孤独である。

 今から19年前、奥多摩でルーテル神大の全学修養会があり、準備委員会の配慮で私は、当時神学校教師であられた石居正己先生(武蔵野教会元牧師)と伊藤文雄先生(蒲田教会牧師)と同室となった。結局、若輩者であった私はその日、長く孤独な夜を過ごすことになる。おまけにどこかから歯ぎしりまで聞こえてくる。まこと世界は神秘に満ちている。朝、お二人に「なかなか賑やかな夜でした」と申し上げると、お二人とも熟練牧会者らしく配慮した控えめな口振りで「確かに長い夜じゃった」と笑っておられた。

 人には自分の呼吸音は聞こえない。正確に言うと、聞こえていても意識していないのだ。それほど意識と呼吸とは一つなのである。そこで私が発見したとっておきの秘義を一つ。自分の呼吸を相手の呼吸に合わせてみるのだ。すると不思議なことに、自分の呼吸音と重なって相手の呼吸音は聞こえなくなる。これは、いびきに苦しむ者にとっても苦しめる者にとっても福音ではないか。もっとも、呼吸が不規則な場合や速すぎて合わせられない場合には万事休すだが。

 パウロは言う。 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と。喜んでいる者には喜んでいる者の呼吸がある。悲しんでいる者には悲しんでいる者の呼吸がある。愛とは隣人の傍らでそっと相手に呼吸を合わせてみることではないか。