たより巻頭言「神のカイロス」 大柴 譲治

 むさしの教会に着任して早くも三ケ月が過ぎました。バザ-も無事終り、いよいよアドベント(待降節)です。12月より、主日夕礼拝と水曜日の聖研・祈り会も始まります。これですべての集会がようやく軌道に乗ることになります。12月は「師走」、「師が走る」と書きますが、どうやら牧師もクリスマス会に忙しく走り回る季節のようです。「忙しい」とは「心を亡ぼす」と書きますが、どんなに忙しくとも心を亡ぼすことなく一つひとつの「時」を大切に歩みたいと念じています。

 聖書の中には二つの「時」が出てきます。ギリシャ語で言えば「クロノス」と「カイロス」です。前者は計量可能な時間を表わす言葉です。それに対して「カイロス」は、計量不能な、特別な「神の時」を意味する言葉です。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)と語られるような「時」です。クロノスの流れには、確かに万物流転、諸行無常の響きがあるかも知れません。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(同1:2)と告げられている通りです。しかしそのような空しいクロノスの流れの中に、けっして空しくなることのないカイロスを信仰者は見てゆくことが許されている。信仰のまなざしで時を見てゆくとき、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(3:11、口語訳)ということを知るのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。今やクリスマスの「時」は満ちようとしています。