説教「主に愛されて」大柴譲治

ミカ書4:1-5 /エフェソ書2:13-18/ヨハネ福音書15:9-12 
 

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「平和主日《に

本日は「平和主日《。毎年8月第一日曜日に私たちは平和を覚えて祈る礼拝を守っています。8月は二つの原爆記念日と15日の敗戦記念日がありますので、私たちにとって再び戦争を繰り返さないためにも過去の歴史を振り返りつつ心に刻む必要があると思います。

本日与えられた三つの日課も平和について告げています。特にミカ書には「終わりの日の約束《という小見出しが付き、そこには「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない《というすばらしい約束の言葉が記されています。ニューヨーク国連本部ビルの礎石に刻まれている言葉でもあります。

これは「終末の日《に神ご自身がこの地上に神の平和を打ち立てるという約束と勝利の宣言です。人類の歴史が憎悪と争いの血塗られた歴史であることを思うとき、私たちは「すべての剣が鋤に、槍が鎌に打ち直される《という平和の実現に対して絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、神の平和の実現のために御子イエス・キリストがこの地上に派遣されたと聖書は語り、私たちキリスト者も同様にキリストの平和を実現するためにこの世に派遣されているということを覚えたいのです。山上の説教の冒頭部分にはこうあります。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる《(マタイ5:9)。また、「あなたがたは地の塩であり、世の光である《と主の言葉も、主ご自身が私たちを「平和の礎《として、この地上が滅びることがないように「防腐剤《として、そして暗闇を照らす「平和の灯火《として見ておられるという事実を想起させるものです(同5:13-14)。

『9.11テロに立ち向かった日系人』

私は1983年7月にこの武蔵野教会での教会実習を終えた後、8月よりカナダのバンクーバー近郊のラングレイという町のShepherd of the Valley Lutheran Churchという教会で一年間のインターンを開始しました。そこで出会ったある教会員のカップルから一冊の本をいただきました。そこには太平洋戦争中、1942年より2万人を超える日系カナダ人が土地と財産を没収され、強制収容所に収容されたということがつぶさに記録されていてとても驚かされました。カナダは1988年になってブライアン・マルルーニー首相の時に国として公的な謝罪と補償を行いました。

1984年にカナダでの一年間のインターンを終えて帰国し、7月より熊本・神水教会での七ヶ月のインターンを開始しました。ちょうどその年のNHK大河ドラマは山崎豊子の『二つの祖国』を原作とする『山河燃ゆ』という太平洋戦争中の日系米国人の苦難を扱ったものであったことを印象的に覚えています。

私はそのことを長く忘れていたのですが、先日BS放送で俳優の渡辺謙が進行役を務めた二晩連続の『9.11テロに立ち向かった日系人』というドキュメンタリー番組を見て思い起こしました。ご覧になられた方もおられましょう。そこで紹介されていたノーマン峯田という日系米国人の姿がとても印象に残ったのです。私の中では「われここに立つ。神よ、われを助けたまえ《と言った宗教改革者マルティン・ルターの姿と重なりました。

このノーマン・良雄・峯田という方は、両親が静岡県から米国に移住した日系二世で、1931年11月生まれで今年の11月でちょうど80歳になるカリフォルニア州サンノゼ出身の政治家です。1971年に日系人としては(ハワイ以外では)初めてサンノゼ市長を務め、クリントン大統領時代に商務長官(2000-2001年)、そしてジョージ・ブッシュ大統領時代に(2001年1月-2006年7月)運輸長官を務められました。そしてちょうど運輸長官に就任した年の9月11日にニューヨークのテロ事件が起こるのです。

9.11テロ直後からアメリカではアラブ系・イスラム系の住民への脅迫・暴行等の迫害が始まります。そこから派生した「人種プロファイリング《(人種を基準にして選別や調査を行うという差別です)を飛行機の乗客に対して徹底的に行うべきだと多くのマスコミや政治家が主張したのです。

しかしこれに対してノーマン峯田長官が断固として異議を唱えました。「アラブ系・イスラム系アメリカ人は、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられるべきです。外見や肌の色で判断されることについて私は実体験として知っています。日本人を祖先に持つ私の歴史は、私の両親の精神力と強い志、そして日系アメリカ人が直面した上当な扱いの数々から成り立っています。人種プロファイリングが安全の基礎になるものでは決してありません《。このようなノーマン峯田氏の主張により「人種プロファイリング《の適用は回避されることになりました。そして全米の全空港に堅固な安全システムが設置されたのです。

ノーマン峯田長官は子供の頃、太平洋戦争中、体感マイナス33゚Cにもなるワイオミング州ハートマウンテン強制収容所に家族と共に収容された経験がありました。両親は仕事も財産も何もかも奪われたのでした。9.11テロの時と同じくこの時も、マスコミや政治家が声高に日系人を隔離し収容せよと叫んで、米国民全体がそちらに誘導されたからでした。戦争やテロがもたらす憎悪や恐怖心、そこから言われのない差別が生み出され、その差別を受けた人間は家族の崩壊やトラウマ(心的外傷)という問題を抱え込んでしまうのです。峯田長官はこうした実体験に基づき、これらのことに鈊感になっている者に強い警鐘を打ち鳴らすために「人種プロファイリング《を頑なに拒んだのでした。

峯田長官はマスコミや政治家たちからの烈火のごとく集中させられた非難・批判をも毅然として耐え抜いてゆきます。「これは憲法に照らし合わせても正しいことなのです。ですからそれに対しては断固として『ノー』と言って、強い姿勢で揺るがず立ち向かうしかないのです。直面している問題を明確にしつつ、感情的にならずに判断し、レンガを一つずつ積み重ねるようにして強固な基盤を築きながら耐えるしかありません。誰から反論を受けてもそれに耐えられるような判断を常に下してゆきたいものですね《。そう言いながら、終始柔和な笑顔の中に首尾一貫性を貫いた峯田さんの姿は深く心に残りました。本当の苦難を乗り越えた者だけが到達することができる透明性、高貴さ、英語で言うならば decency という次元を私はそこに強く感じ取りました。

ドキュメンタリーの最後には、案内役の渡辺謙氏を自分の運輸長官として自画像が掛けられている議会の一室に誘う峯田さんの姿が映し出されました。その会議場の壁には歴代の運輸長官の自画像がかけてあったのですが、その真ん中に峯田さんの自画像がありました。そこには、ワイオミング州ハートマウンテンと、その強制収容所と両親に挟まれて立っているノーマン少年の姿が自分のルーツとしてはっきりと描かれていました。

アメリカの恥部とも言える日系人の強制収容所の歴史を生き抜いた者として自分のルーツを誇り高く示す峯田さんの真摯な姿に私は深く心動かされました。自分を愛してやまなかった両親への愛、正義への愛、合衆国憲法が示す正義と公平への愛がそこには貫かれています。真理を真理として頑として、謙遜に、しかし明確に、主張し続けるノーマン峰田さんのような方々が、激動の世界史の中には無数におられるのだろうと思います。真実の愛がそれを支えているのです。

2001年11月、その長年の功績を顕彰するために地元のサンノゼ国際空港がその正式吊を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港《と改称されました。私はその真摯な生き方から、真の神を神とする生き方、神以外の何ものをも神としない生き方を示されたように思います。

「キリストこそ平和」

深い悲しみや痛み、怒りやどうしても赦せないという気持ちを私たちは誰しも腹の奥底に抱えているように思います。それは思い起こすだけで手がブルブルと震えてしまうような言葉にすることの難しい気持ちです。普段それは沈殿していて、私たちはそれを意識せずにいますが、いざという時には、撹拌されるようなかたちでその苦い思いが表面に出てきて、私たちを強烈に支配しようとすることがあります。そこを突破するために私たちはどうすればよいのでしょうか。

聖書はそのような私たちにキリストの十字架を見上げるよう告げています。主は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らないのです《と祈られました。このキリストの赦しの愛が、そしてこの真実の愛だけが、私たちを変えてゆくのです。私たちの怒りや悲しみ、恨みやつらみのすべてをその身に引き受けることで、どうしても人を赦せないでいる私たちを赦し、赦すことの大切さを命をかけて教えてくださったのです。エフェソ書2章は告げています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。《

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたの罪のために与えるわたしのからだ《「これはあなたの罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約《と言って、私たちにパンとぶどう酒を差し出して下さるキリスト。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい《と言って、私たちにその無限の愛を注いで下さるキリスト。このキリストの愛こそが、私たちの中にある深い怒りや悲しみ、痛みを根底から変えてゆく力を持つのです。主は私たちの重荷と軛とを共に担って下さった。私たちの人生をはらわたがよじれるほどの深いあわれみをもって、「人生の同伴者《として共に傍らを歩んで下さる同行二人のキリストを私たちはそこに強く感じるのです。

十字架のキリストを見上げる中で、聖餐式においてその愛の力を深く味わうことを通して、私たちは「平和《への決意を新たにしたいと思います。主が私たちを平和の道具として用いてくださいますように。

お一人おひとりの上にそのような確かなキリストの愛と平和がありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

ミカ書4:1-5 /エフェソ書2:13-18/ヨハネ福音書15:9-12

(2011年8月7日 平和主日聖餐礼拝説教)