創世記45:3-15/ルカ福音書6:27-36
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。心を伝える四つの言葉
牧師として人生の最後に関わる仕事をしていますと、様々なことを考えさせられます。ターミナルケアにおいてもグリーフワークにおいても、良くも悪くも、最後に私たちに問われる大切なことは人間関係なのだということをしばしば思わされます。私たちを最後に支えるのは、やはり一言で言えば、「愛の絆」であり、「心のつながり」なのです。一人でも本当の意味で、自分を理解してくれる親友がいれば(それを「魂の友」と呼んでもよいかもしれませんが)、私たちはその存在に支えられて生きてゆくことができるのです。その友との絆は、不思議なことですが、CS・ルイスが『悲しみを見つめて』という本の中で記しているように、死によっても断ち切られることはありません。対話は続く。それまでとは違ったかたちではありますが、確かに愛の関係は死を越えても続いてゆくのです。場合によっては、死を通して、それまで以上に強められるような関係があると思います。
今年の私たちの教会の年間主題は「コミュニケーション」。その主題に関して総会礼拝でも申し上げたことでもありますが、「愛」という字には真ん中に「心」という字が入っていて、「心を受ける」と書くとある人が言っていたのを聞いてハッとしたことがあります。厳密に言うと少し字が違うようにも思いますが、心を受け止め合うこと、心を伝え合うことが愛なのだと言われると「なるほど、確かにそうだ」と深いところでストンと腑に落ちるように思います。
前にも申し上げたことがありますが、心を伝えるための大切な言葉として四つの言葉があります。とても簡単な言葉ですが、基本的な言葉と言ってもよいでしょう。それは次のような言葉です。
(1)”I’m sorry.” (「ごめんね」「すまなかった」「申し訳ない」「お赦しください」)
(2)”I forgive you.” (「もういいよ」「あなたを赦します」)
(3)”Thank you.” (「ありがとう」)
(4)”I love you.” (「あなたが大好き」「あなたを大切に思っています」)
どれも味わい深い言葉ですが、なかなか素直に伝えることが難しい言葉でもあります。身近であればあるほど、そうかもしれません。しかしこれらはどうしても伝えておかなければならない言葉でもある。日本人は以心伝心と言って言葉にしなくても伝わると考えている節がありますが、そして確かにコミュニケーションにおいて言語的な部分は7%にすぎないということもあるかもしれませんが、自分の心を伝えることの大切さを思います。しかし、どうぞ今日、家に帰られたら、ぜひこの四つの言葉を一番身近にいるご主人か奥さまに語ってみてください。ご家族で話し合うことができたら素晴らしいと思います。
「死」は人生を統合し、完成させてゆくステージであると思いますが、その時に問題になることがこの四つの言葉なのです。和解の言葉です。時間切れになる前に、時間があるうちにぜひ自分の人生を振り返って、心の深いところにある悔いや苦い思いを一つひとつ検証しながら、和解をしておく必要があると思います。その意味では本日の礼拝に出られた方は究極のターミナルケアについて考えるみ言葉が与えられたと思っていただいてよいのだろうと思います。
敵を赦すことの困難さ
本日は特に、とりわけ二番目の”I forgive you.”と四番目の”I love you.”といういうことが主題であると言うことができましょう。イエスさまの福音書の「敵を愛しなさい」という言葉もそのような「敵を赦す」という観点から見てゆきたいのです。真の愛は寛容であり、情け深いからです。そう聞きますと、私たちの中には絶望的な思いになる部分もあります。私たちは普段は敵と味方を区別して、その間に壁を作って自分を守りながら生きているようなところがあるからです。敵も味方もないということになると、どうすれば自分を守ればよいのでしょうか。敵を愛するということは、突き詰めていえば、敵に殺されてもいいということでもありましょう。十字架で殺されたイエスさまに習うということでもあるのです。私たちはどこかでこのイエスさまの「敵を愛せよ」という命令を割り引いて聞いているところがあります。そうしないとこの身がいくつあっても持たないということになるからです。「敵を愛するなんて無理なことさ」と私たちはどこかで諦めている。もしそうであれば「敵は本能寺にあり」で、私たち自身の中にある「キリストへの不服従」が問題なのです。
たとえばある方は、一つの問いに生涯真剣にこだわり続けられました。「私はどうしても主の祈りの中の『われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ』という一節が心から祈れないのです。どうすればよいでしょうか」。その背後にはどうしてもある人を赦すことができないという深い思いがありました。それは本当に正直な思いであると思います。
私たちの中にも深いところには同じような思いが沈殿しているのだと思います。「あの人だけは赦せない。あの行為/言葉だけは赦せない。」という胆汁のように苦い思いがあるのだろうと思います。赦すということは難しいことです。ですからペトロもイエスさまにこう問うたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」すると主はペトロに言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と(マタイ18:21-22)。これは490回赦せばよいということではありません。何回赦したと数えているようでは本当の意味では赦していないからです。
人間はどこかで仕返し/復讐することを懸命に考えているように思います。怒りのエネルギーというものは本当にすさまじいと思います。怒っている人の目は本当にメラメラと燃えているように感じることがあります。「今に見ていろ、必ず見返してやるから」。「目には目を、歯には歯を」と言われている戒めも「同害報復法」といって、「目をやられたから、歯をおられたから命まで」とエスカレートしがちな人間の復讐心を抑えるためのものであることはご存知の方も少なくないことでしょう。「復讐するは我にあり」というローマ12:19の言葉を思い起こす方もおられるかもしれません。神が必ず裁いてくださるという思いをもって自分の怒りを収めようとしても、しかし収まりません。深く沈殿していた怒りが何かの拍子に思い起こされることがあります。
パウロはローマ書5章で「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言っていますが、怒りのエネルギーを何とか、水力発電ではないですが、マイナスの方向ではなくて、プラスの方向に用いたいと思っても、それがいかに困難であるかは私たちの皆が知っているところです。『ロミオとジュリエット』にしても、『ウェストサイドストーリー』にしても、復讐がもたらす悲劇が後を断ちません。”I forgive you.”とはなかなか言えない言葉なのです。本日の旧約の日課に出てくるヨセフと兄弟との和解の場面が私たちの心を打つのは、その背後に深いドラマを感じるからでありましょう。
十字架による突破口~和解の十字架
神は全く私たちの思いを遙かに越えたかたちで人間の怒りの収め方を教えてくださった。それは真に驚くべき仕方であります。「神の復讐」は敵対するこの世のためにその独り子を賜るという仕方で実現したのです。それこそみ子イエス・キリストの十字架です。主は十字架の上で、自分を十字架に架けた者たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。私は何度この部分を読み直しても、愕然とします。この言葉は人間には全くもって不可能な言葉であると思います。十字架上の七つの言葉はどれもそうですが、私たちの存在を根底から新たに作り直すほどの力がこもっています。
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と主は今日の日課で言われていますが、「敵を愛する」ということは単に自分が敵を赦すということに尽きるのではない。”I forgive you.”ということだけではないのです。敵のために「神に」対して、神の赦しを執り成すところまで射程に入っているのです。
これはイエスさまにしかできないことなのですが、この「神を見上げる」ということが実は重要なのです。敵を愛するということは敵に殺されるだけではない。自分を殺そうとする者を赦し、その者のために神の赦しを祈ることなのです。そして、キリストに従うということは、私たちもまたそのような生き方をするということです。
ルカは使徒言行録7章の終わりに最初の殉教者であるステファノが最後に主と同じ祈りを祈ったことを報告しています。その部分(7:54-8:1)を引用してみます。
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
ここでサウロと出てくるのは後のパウロのことです。パウロは自分のことを1テモテ1:15で「罪人のかしら」(口語訳、新共同訳では「罪人の中で最たる者」)と呼んでいますが、その言葉は私たちにこのステファノの殺害の場面を思い起こさせます。
敵を愛するどころか、どうしても赦すことのできない怒りや恨みを抱えている私たちです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をもお赦しください」と祈ることを口ごもってしまう私たちです。しかし、主はそのような敵を赦すことができない私たちのことを先刻ご承知の上で、十字架にかかってくださったのです。
それはエフェソ書2章が言う通りです。キリストは私たちの平和であり、「敵意という隔ての中垣」を十字架において取り壊し、敵意を滅ぼしてくださったのです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(2:14-18)
ヨセフ物語
旧約聖書の日課としてヨセフ物語の最後の部分が与えられていることの重みを思います。ヨセフはご承知のようにヤコブの11番目の子どもで、兄弟たちから憎まれて、エジプトに奴隷として売り飛ばされた人物です。そしてエジプトにおいて夢を解き明かすことができるという特技を発揮して、ファラオの夢の意味を解き明かし、やがて宰相(今で言えば「農林大臣」というところか)にまで登りつめてゆくのです。そしてイスラエルの国が飢饉となり、父親のヤコブに派遣されたヨセフの兄たちがエジプトに助けを乞いに来ます。それをとうとう赦す場面が先ほど読んでいただいた創世記の45章です。ヨセフの涙の背後には、長い間の苦しみがありました。兄たちに対する怒りや恨み、憎しみや敵意があった。しかしそれをヨセフは乗り越えることができたのです。どうやって乗り越えられたか。大きなところからそれをも救いのご計画の中で用いられた神の御心を知ることができたからです。ヨセフは神が自分を用いてその救いのみ業を実現してくださることを知ったのです。その時に敵対する兄弟を赦し、和解の涙を分かち合うことができたのです。
ヨセフは言っています。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(創世記45:7-8)。
神の大きなご計画を知る時、愛を知る時、私たちは自分の中の敵意や憎悪に支配されていた次元から突破することができるのです。目の前のことだけしか見えなかったところから、一歩退いたところから大きな視点から物事を見ることができる時、私たちは”I forgive you.””I love you.”と言うことができるようになる。絶対化していた自分の怒りや憎しみを相対化することができるのです。絶対者は神のみだからです。「汝の神のみを神とせよ」と十戒の最初の戒めは私たちに命じます。自分の怒りや憎しみを神とするのではない。十字架のキリストを私たちの神とするのです。
イエスさまは言われます。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」「友のために命を棄てる。これよりも大きな愛はない」と主は言われました。敵を友と呼んでくださり、十字架にかかることで敵を友としてくださった主。
主の祈りの「われらに罪を犯す者をわれらが赦すがごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節は、私たちを主の十字架の前へと連れ出す祈りなのです。私たちの罪を赦し、私たちにもう一度神との和解の関係をもたらすために十字架にかかってくださった主イエス・キリスト。このお方の中に私たちは、神の”I forgive you.””I love you.”という声を聴くのです。その独り子を賜るほど強い愛の力のゆえに、私たちはステファノのような者へと変えられてゆくのです。サウロがパウロに変えられたように変えられてゆくのです。そのように私たちの存在を根底から創造しトランスフォームする和解の十字架を覚えながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。
お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2007年2月11日 顕現節第六主日礼拝)