説教 「その名はインマヌエル」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 1:18-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題について

アドベント第三主日。本日の主題は1:23の言葉、預言者イザヤの言葉の成就です。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

「その名はインマヌエル」! イエスさまにおいて神がわれらと共に臨在しておられるということが明らかになったのです。神は臨在の神であり、私たちと共に生きてくださる共在の神です。荒野の旅を昼は雲の柱、夜は日の柱をもって導き、天からマナを降らせ、岩から水を湧き出させ、うずらを飛ばせてイスラエルの民を40年間守り導かれた神なのです。

ルカとマタイの強調点の違い

ご承知のように、イエスさまの誕生の記事はマタイ福音書とルカ福音書にしか記録されていません。そしてこの二つの福音書は、少し異なった報告をしているのです。ルカ福音書では天使はマリアに現れて受胎告知を伝えます。その天使の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)とマリアは答えてゆく。ルカ福音書は、マリアに焦点を合わせることによって、神の行為に対して人間が応答する際には本質的に受動的であることを強調しているといえましょう。

他方、マタイ福音書では天使はヨセフに受胎告知を告げます。マタイはヨセフをその主役に選ぶことによって、人間が応答する際に見られる積極的な要素を強調していると言えましょう。ヨセフは三度夢の中で天使に指示を受けて、その都度、三度とも彼は行動しなければならないことになっています。すなわち、マタイ1:20の天使の告知後にはヨセフはマリアを受け入れて結婚していますし、2:13では、ヘロデ大王の虐殺を避けて、夜のうちに妻子を連れてエジプトへと旅立っています。2:19では天使の告知を受けてエジプトからイスラエル(ナザレ)へと戻ってきているのです。

パウロ同様、マタイにとっても神が救済のドラマの最高の主役です。神の恩恵が(もっともマタイはこのパウロ的な用語を用いていませんが)やはり常に先行しています。しかし、神さまの救済の恩恵に対して人間が応答する際には、それは能動的なものであって、単に受動的であってはならないと主張しているようです。マタイでは、ルカよりも、神の恵みの選びに対する応答の行為が強調されているのです。それは山上の説教の7:21で頂点に達します。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国にはいるわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

私たちはルカとマタイの両方が共に置かれていることに感謝したいと思います。「お言葉通り、この身に成りますように」というマリアの信仰と、黙って神からの言葉に服従して三度、すなわち繰り返し徹底して行動してゆくヨセフの信仰の両面が私たちには求められているからです。そこではマリアとマルタのように黙って全身全霊をもって主イエスの言葉に耳を傾けるマリアと、一生懸命イエスをもてなそうと働くマルタの両方があり、その両方が大切にされている。Being(存在そのもの)とDoing(行為)の両方を大切にするよう求められています。

「その名はインマヌエル」~『あしあと』

「インマヌエル」というヘブライ語は「神がわれらと共におられる」という意味です。これはどういうことでしょうか。天地万物の創り主なるお方、永遠なるお方が、被造物の一つに過ぎない私たちと共にいてくださるという宣言であり、いうならばそれは「神のご臨在宣言」です。み子イエスにおいて、私たちが喜びの時にも悲しみの時にも、共にあるときにも孤独な時にも、いつも私たちのかたわらにいてくださるという宣言なのです。私たちの主イエス・キリストは人生の同伴者であります。「同行二人」というお遍路さんの言葉がありますが、主は私たちの人生を私たちと共に歩んでくださるお方なのです。

私はここで、『あしあと』と題されている一つの短い物語をお話ししたいと思います。ご存じの方も多いかと思いますが、この物語は同伴者キリストについてよく表していますのでご紹介させていただきます。

ある夜一人の男が夢を見た。彼は海辺を主と共に歩んでいた。彼の、今までの生涯が空からの光にうつし出された。彼は浜辺に二組の足跡を見つけた。一つは自分のものであり、もう一つは主のものであった。

彼の生涯がうつし出された時、ときどき足跡が一組しかないことに気づいた。又、その時は彼が嘆き悲しんでいる時であったことに気づいた。そこで彼は主にたずねた。「主よ、あなたは、いつも私と共にいて下さるとおっしゃいました。しかし、私は私の生涯の中で一番つらい時、足跡が一組であることに気づきました。私には理解できません。何故、あなたは、私があなたを一番必要とする時に、私を離れられたのですか」と。

主は答えられた。「愛する子よ、私は、決してあなたを離れることはない。あなたが見つけた、あなたのつらい時の一組の足跡、それは、私があなたを背負った足跡なのである。」

「インマヌエル」! 「神われらと共に」! 「その名はインマヌエル」というのは、どのような苦しい中にあっても、他の者が見捨てるような時にも、主イエス・キリストが私たちの人生を共に歩んでくださるということを表しています。ちょうどそれは、詩編23編に、「たとい死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」と告白されているとおりです。あのステンドグラスに描かれているように、私たちは主に向かって告白することができるのです。「主はわたしの羊飼い。わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われる。主はみ名のゆえにわたしを正しい道に導かれん」と。

インマヌエルの原事実

そのような救い主が私たちのもとに到来してくださった。そして再び、来たり給う。私たちはたとい死の陰の谷を歩むときにも安心してよいのです。そして実はこの「インマヌエル」という根源的な事実は、私たちが気がつこうが気がつくまいが、片時も揺るぐことがなく私たちの生きている根元にあるとイエスさまは語っておられるのです。たとえば山上の説教の、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という戒めの中では、「(天の)父は悪人にも善人にも提太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と語っておられますし、「明日のことは思い煩うな」という戒めに関しては「野の花、空の鳥を見よ。巻くこともなく苅ることもしない。しかしあなたがたの天の父は養ってくださる。・・だから何を食べようか、何を着ようか思い悩んではならない。・・あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:25-34)。

このような言葉には、私たちの命の根元、命の根元にインマヌエル、神が共にいましたもうという事実があるということを意味しています。そのような天の父なる神との大変に親しい関係の中にイエスさまは生きられた。「アッバ 父よ」という親密な呼びかけをもって神に祈られたイエスさまは、その意味では並ぶ者のないお方であったようです。全能永遠の創造主なるお方を「おとうちゃん」という小さな子供が絶大な信頼をもって父親に呼びかけるように呼びかけられた。それはイエスさまご自身がインマヌエル、「神、共にいます」という現実から片時も離れずに生きられたことを意味しています。

また、ルカ福音書17章では、ファリサイ人の「神の国はいつ来るのか」という質問に答えてこう語られています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(20-21節)と。神の国は実に、見えない形ではあるが、もう既にあなたがたのただ中に現在している。現臨しているのだ。インマヌエル、神われらと共にいますという形で。イエスさまはご自身の存在そのものが神の現臨のしるしであると語っておられるのです。

見える神としての主イエス・キリスト

キリスト教は「神」教ではなく、どこまでも「キリスト」教であって、キリストが常にその中心に置かれています。神がご自身をキリストを通して啓示されたのであり、私たちは神をキリストを通して見るのです。「わたしたちに父をお示しください」と言うフィリポに主は言われました。「わたしを見た者は父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と。キリストが神の内におられ、神がキリストの内におられる。父と子は一つです。み子なる神の受肉は、「インマヌエル」の神の目に見える受肉なのです。そのことをキリストは私たちにその生涯と苦難と死と復活とを通して示してくださった。十字架の上での、「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになられたのですか」という悲痛な叫びも、絶望や悲しみの中にある者と共に歩み給う主イエス・キリストの愛が示されています。

たとい死の陰の谷を辿るときも、私たちと共に歩んでくださる主イエス・キリスト。「その名はインマヌエル」と呼ばれるこのお方を人生の同伴者として、私たちはご一緒に新しい一週間を歩んでまいりましょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年12月16日 待降節第三主日礼拝 説教)