説教 「喜びを与える星」大柴 譲治

マタイ福音書 2: 1-12

東からの博士たち

新年おめでとうございます。この新しい主の年1999年もご一緒に礼拝をもって開始することができる幸いを感謝いたします。

教会の暦の中では、毎年1月6日が毎年「顕現日」として守られています。教会の暦では、クリスマスは、この顕現日までほぼ二週間続くのです。顕現日とは英語では Epiphany と言いますが、異邦人にキリストの栄光が顕現した日です。エピファニーとは本来はギリシャ語で「輝き渡る」という意味の言葉です。それはキリストの栄光が全世界に輝き渡ったことを記念する日であり、それはイザヤ60章に預言されていたことの成就でもありました。神さまの救いのご計画は、人の思いをはるかに越えて、予告され実現されていったのです。

東方の博士たちは、異邦人、つまりユダヤ人以外の民の代表です。博士たちの人数は聖書には示されていないのですが、黄金、没薬、乳香という三つの献げ物から三人の博士たちと伝えられています(別の節によると14人だったという伝承もあるようです)。三つの献げ物のそれぞれには意味があるとされています。黄金はキリストを王として認めたことを、乳香はキリストを神と認めたことを、そして没薬はキリストを人と認めたしるしであると言われています。み言葉の歌(教会讃美歌54番)にも歌いましたように、私たち一人ひとりが何を自分の献げ物としてキリストに心から捧げることができるのかを考えてゆくことは大切なことでありましょう。(教団讃美歌332「主はいのちを与えませり」はそのことをさらに印象的に歌っています。)

『もう一人の博士』

その意味で、ヴァン・ダイクの『もう一人の博士』という物語は優れて印象的な物語です。教会学校などで話されることが多いのでよくご存じの方も多いでしょうが、ここであらすじをご紹介したいと思います。

一人のりっぱなペルシャの博士アルタバンが手にした手紙を読んでいました。旅の途中で倒れていた旅人を見るに見かねて介抱したために仲間との待ち合わせの場所に遅れてしまったのです。「アルタバン様、私たちはあなたとお約束した四日目の夜中過ぎまであなたのおいでを待っていましたが、もはやこれ以上お待ちすると、大きな星を見失ってしまいますので、お先にまいります。砂漠を西へ、急いで追いかけて下されば、きっと途中でご一緒になれると思います。一刻も早くおいでください。カスパル、メルキオル、バルサザル」。アルタバンはため息をつきました。「ああ、待ち合わせに遅れると、本当の王様、救い主にお会いできなくなると心配していたのだが。どうしてもほっておけなかったのだ・・・。そう言えば、助けた旅人はユダヤの人で、『救い主がベツレヘムにお生まれになる』と預言者が言っていると教えてくれたのだっけ。確かダビデの町、ベツレヘムと言ったな。よし、三人には遅れてしまったが、ベツレヘムを目指して一人でも旅を続けてゆこう。それにしてもこれからは長い砂漠の旅。疲れ切ったこの馬ではとても無理だ。どうしてもらくだを手に入れなければ」。

そう考えたアルタバンは肌身離さず持ってきた三つの宝石のことを思い出しました。それは青と赤と真珠の玉でした。それはアルタバンが本当の王様にお捧げしようと自分の全財産を売って手に入れた宝物でもありました。「三つともお捧げできないのは残念でならないが、このうちの青い玉でらくだを買おう」。

こうしてらくだを手に入れたアルタバンは、苦しい砂漠の一人旅の末に、ようやくユダヤの国、ベツレヘムにたどり着きました。「さあ、やっと着いたぞ。さて、三人の仲間の博士たちのこととお生まれになった救い主のことを誰かに聞かなければ。そうだ、あの赤ん坊を抱いた女の人がいい。」アルタバンはその婦人に話しかけます。「ちょっとお尋ねしますが、この私と同じような服装をした人たちをご存じないでしょうか。東の方から、らくだに乗ってやってきた博士たちなのですが。」女性は答えます。「はい、その方たちならお見かけしました。確か、遠い東の国から、星に導かれてやってこられたとか。」「そうです。その人たちです。その博士たちは今どこにいるでしょうか。」「それが、ナザレから来たヨセフとマリアさんの赤ちゃん、確かイエスという名前だったと思いますが、その赤ちゃんに会い、献げ物をして、すぐにまた帰ってゆかれたようでした。」「そうですか・・・。それではそのイエスという赤ちゃんはどこに?」「はい、それが不思議なことに、その赤ちゃんもすぐその後、ヨセフさんたちに連れられて、夜の明けないうちにこっそりと、どこかへ行ってしまわれたのです。つい三日ほど前だったと思います。」せっかくここまでたどり着いたアルタバンにとって、それはなんと悲しい知らせだったことでしょう。一足違いで、三人の仲間にも、イエスさまにも会えなくなってしまったのです。

と、突然、町の人々の叫び声が聞こえます。「大変だ!軍隊が来たぞ!」「ヘロデの兵隊が赤ん坊を殺しに来る!」「キャー、助けて!」瞬く間にその叫びの渦はベツレヘムの町全体に広がってゆきました。兵隊たちも叫びます。「さあ、手分けして、赤ん坊を捜せ。」「男の赤ん坊だぞ、分かったな。」アルタバンと話していた婦人も赤ちゃんを抱きかかえるようにして自分の家に走り込んでゆきました。そこに一人の兵隊が来ます。「おい、どかんか。この家には確かに赤ん坊がいる。じゃまをするな。そこをどけ!」アルタバンはとっさに答えます。「いえいえ、この家には、私一人しかすんでおりません。ま、ま、ちょっとお待ちください」。そう言ってアルタバンは、赤い宝石を取り出します。兵隊に差し出して言いました。「さあ、この宝石、赤ん坊より、この、真っ赤な宝石の方が値打ちがありましょう?」「なに?・・・ふんふん、なるほど、これをわしにくれるというのじゃな。よろしい。おオー胃!ここには、子どもはおらん。向こうを探せ!」アルタバンの大切な二つ目の宝石は、こうして、一人の赤ちゃんの命を救うために使われてしまいました。

それから何年経ったことか。アルタバンは長い旅をしながら遠くエジプトに来ています。ユダヤで、風の便りに、イエスさまがエジプトに行かれたと聞いてやってきたのです。しかし広いエジプトのこと、あちらの町、こちらの村を訪ね歩いても、どうしてもアルタバンはイエスさまにお会いすることができなかったのです。そして、アルタバンはその間にも、困っている人がいればすぐに助け、苦しんでいる人を慰め、食べ物ののない人には食べ物を、着るもののない人には着るものをと、本当の愛の行ないを忘れませんでした。

こうしてアルタバンが故郷を離れてから、いつの間にか三十年余りの長い年月が過ぎ、アルタバンはすっかり歳を取ってしまいました。あと何年生きられるか分かりません。アルタバンは、もしかしたらと最後の望みをかけて、もう一度、イエスさまの国ユダヤに帰ってきました。

エルサレムの町に入ると、それは、それはたいへんな騒ぎです。みんなが、町外れへと駆けてゆきます。何が起こったのかとアルタバンが走りすぎようとする男に聞くと、彼はこう答えました。「何が起こったもなにも、あなたはご存じないのですか?イエスという方が、十字架にかけられるというので、引っ張ってゆかれるところなんですよ」。「え!イエスという方?それではもしや私の探しているあのイエスさまでは・・・。」アルタバンは驚きの余り立ちすくんでしまいました。そのときです。一人の娘が走ってきて、アルタバンにすがりつきました。「どうか助けてください。お願いします。私は奴隷に売られてゆくのです。あの兵隊がつかまえに来るのです。助けてください」。続いて現れた兵隊がアルタバンに言います。「おい、その娘をこっちによこせ!じゃまをすると承知しないぞ!この娘には、高い金がかかっているんだ。それともお前さんがその金を払うとでも言うのか。」「おじいさん、助けてください。助けて!」アルタバンの心は乱れました。これだけはイエスさまに捧げようと、最後まで大切にしてきた宝石だ。でも、この宝石を渡せば、この娘は、ひどい目にあわなくてすむ・・・。とうとうアルタバンは、三十年も持ち続けてきた宝石を、一人の少女を助けるために、手放してしまいました。

突然の出来事に思わぬ時間をとられてしまったアルタバンは、疲れ切った身体を引きずるようにして、イエスさまが十字架に付けられたというゴルゴダの丘を登りはじめました。助けられた少女は、うれし涙にむせびながら、アルタバンの後を追います。すると、あたりが急に暗くなり、激しい風と共に大地震が起こりました。アルタバンは突然倒れ、そのまま動かなくなってしまいました。少女が抱き上げます。「おじいさん、しっかりしてください。おじいさん!」少女の胸に支えられたアルタバンは、もう二度と起きあがれそうになく、じっと目を閉じていましたが、やがて、わずかに、唇を動かして、誰かに返事でもするように何か言い始めました。「いいえ、イエスさま。私はあなたをお助けした覚えはございません。森の中で旅人を助けたとき?赤ん坊の命を救ったとき?この娘を自由にしてやったとき?はい、けれども、私はイエスさまには何もいたしてはおりません。いや、それどころかお捧げするはずの三つの宝石も、とうとう・・・。」その時です。アルタバンの耳には、はっきりとイエスさまのお声が響きました。「あなたが、この人たちにした愛の行いは、私にしたのと同じなのです」。アルタバンは安心したように、にっこり笑うと、そのまま静かに天に召されました。あのイエスさまをしたい、イエスさまを愛し、また自分の周りの人たちを心から愛することのできたアルタバンの愛の心と行いこそ、三つの宝石のどれよりもすばらしい、イエスさまへの献げ物だったのです。

喜びを与える星を見上げて~聖餐式への招き

本日私たちは聖餐式に与ります。「東からの博士たちはこの星を見て喜びにあふれた」とマタイははっきり記しています(2:10)。私たちを喜びにあふれさせる星の輝き、それを見上げることこそが実は一番大切な事柄です。その光こそ、力ある神さまのみ子イエス・キリストにおける啓示の光であり、その光こそが私たちに喜びを与え、私たちの生き方を根底から造り替えてくれるようなダイナミックな力を持つのです。聖餐式に与る中で私たちもこの星の輝きを見て喜びにあふれたいと思います。そしてアルタバンがキリストの光を生涯かけて探し求めたように、私たちもまたこの新しい主の年1999年、一年間を、喜びに満たされて、キリストの光に向かってご一緒に歩んでまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

(1999年 1月 3日)