説教 「ナザレの人と呼ばれる」 野口勝彦神学生

マタイによる福音書 2:13-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

2004年の終わりに

今年も残り僅かとなりました。今年を振り返ってみると、ある機関が今年を象徴する言葉として「災」という言葉を選んだことからも分かる通り、台風や地震など様々な自然災害に見舞われた年でした。そして、今年の最後の主日に私たちに与えられたみ言葉も、この言葉を表わすかのような非常に不条理な出来事が与えられています。一昨日には、200名を超える皆さんとご一緒に、この会堂でイエス様の降誕の喜びをお祝いするクリスマスイブ音楽礼拝を守ることができました。しかし、その大きな喜びの後に、このようなみ言葉が私たちに与えられているのです。今日のみ言葉は、今年の最後に、一体、何を私たちに何を語りかけようとしているのでしょうか。

ヨセフとヘロデ

今日のみ言葉は、大きく三つの内容から構成されています。それは、始まりである13-15節の「エジプトへの避難の物語」と16-18節の「ヘロデ王の嬰児虐殺の物語」、そして、19-23節の「エジプトからの帰国の物語」です。つまり、今日のこのみ言葉は、「地上の王」であるヘロデと「全人類の王」であるイエス様との対立が主題となっています。そして、この対立を通して、この三つの物語は、それぞれ、旧約聖書に記されている預言が成就する物語として描かれています。これらのことを頭の隅に置きながら、今日、私たちに与えられたみ言葉が、私たちに何を語りかけているのかをご一緒にみていきたいと思います。

今日のみ言葉には、ヨセフをはじめ、何人かの人物が登場しますが、その名で登場するのは、ヨセフとヘロデの二人だけです。イエス様とその母マリアの名は今日のみ言葉の中には出てきません。そのような意味から考えると、今日のみ言葉は、ヨセフとヘロデが中心のみ言葉であると考えることができるかもしれません。

今日のみ言葉の中のヨセフは、ただ、主の天使の言葉に黙って従うだけです。その沈黙による従順さが預言者の言葉を成就していきます。それは、信仰者の模範の姿を示しているように見えます。

それに対して、ヘロデは、ヨセフと正反対の行動に出ます。ヘロデは、歴史的には、非常に残酷な支配者として知られています。ローマ皇帝アウグストゥスからユダヤを支配することを許された王ですが、その支配を認めたアウグストゥスでさえ、「ヘロデの息子であるよりは、豚の方がまだ安全だ」と言わせしめた程の残虐性を持った支配者として言い伝えられています。実際、史実によれば、実の息子や妻など七人もの身内の人間さえも殺害しているのです。

孤独

では、なぜ、ヘロデはこのような殺害を繰り返したのでしょうか。実は、ヘロデは、純粋なユダヤ人ではなかったのです。元々彼は、ユダヤの南部に位置するイドマヤ出身であり、後に、ユダヤに編入された土地の出身であったのです。そのことが、彼が純粋なユダヤ人から蔑まれる原因となっていました。要するに、彼は、ユダヤの王権を継ぐものとしての正統性への不安を常に抱えていたのです。このような事情が、彼を殺害に、自分の王としての正統性を脅かし、その王位を窺う恐れがある者への殺害へと駆り立てたのです。そういう意味では、ヘロデは、どこにも隙のない完璧な強い人間というよりも、常に不安を抱え、猜疑心に悩まされた、非常に人間的に弱い男だったと言うことができるかもしれません。

そのことが、2章2節の「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という占星術の学者たちの言葉を「聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」という記述につながっているのです。まさに、ヘロデにとって、イエス様の誕生は、自分の王としての正統性を、自分の王としての存在を、いや、自分自身の存在の根拠をも無くしてしまうような重大な出来事であったのです。それで、ヘロデは慌てて、その占星術の学者たちにイエス様の居所を探させ、彼らが自分を裏切ったことを知ると、すぐさま、イエス様の可能性がある者すべて、つまり、16節で記されている通り、「べツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」のです。

彼が殺害をする目的、それは、ただ一つ、自分を、自分の存在を守るためです。確かに、彼に支配される者にとって、彼の存在は、恐怖そのものであったことでしょう。それは、彼を支配するローマ皇帝アウグストゥスさえ、先の言葉つまり、「ヘロデの息子であるよりは、豚の方がまだ安全だ」という程のものであったのです。しかし、彼自身も、日々、自分の存在の確かさを守るために、自分の王位を窺う者の出現や暗殺の陰謀の猜疑心の中に、その不安の恐怖の中に、ただ一人いたのです。そして、その恐怖が、自分の最も愛する妻であったマリアムネ一世をも殺害してしまうのです。彼は、このことを生涯悔やみ続けます。そのことが、彼をさらに苦しみの中に、孤独の中に追い込んだのです。そして、この孤独が、新たなる猜疑心を生み、また、彼を殺害へと駆り立てていったのです。

この彼の姿を思いながら、私は、その彼の姿の中に、自分の姿を、いや現代に生きる私たちの姿を、重ねあわせて見ている自分の姿に気づいたのです。それは、現代に生きる私たちも、このヘロデと同じように、日常の生活の中で同じこと繰り返しているのではないかという気づきです。同じこと、それは、言うまでもなく、このヘロデのように誰かを直接的に殺しているということではありません。それは、私たちが、日常の生活の中で、自分の主張を、自分の正当性を、自分の存在を守るために、周りを否定したり、批判したりして、自分こそが正しい者だ、正当な者だとして、周りの主張を、正当性を、存在を間接的に殺しているということです。自分を守るということのみに囚われ、周りに対する猜疑心に悩まされ、このヘロデのように誰も信じられないという孤独の苦しみ中に追い込まれていくと言うことです。

「孤独」、私は、この言葉を聞くと、あのマザー・テレサの有名な一つの言葉を思い出します。「人にとって一番の苦しみは飢えではない。それは孤独なのだ。」(『生命あるすべてのものに』)

ヘロデ、彼は、確かに支配者としては、残虐な王であり、圧倒的な政治力と軍事力を兼ね備えた強大な王であったことは事実でしょう。しかし、一人の人間として、その彼の生涯を見たとき、そこには、その強大さとは裏腹な「孤独」という最大の苦しみを負った生涯を過ごした一人の人間の姿が浮かび上がってきます。彼は、自分の死を予期した時、自分の死を悼む者がいないことを予想し、ユダヤ中の重要人物を集めて競技場に閉じ込めたと言います。そして、自分の死後、時を置かずにこの人々を殺させようと命令しました。それは、そうすればユダヤ中が喪に服すると考えてのことでした。それは、彼の孤独の苦しみは、自分の死後のことさえをも不安にさせるような苦しみであったことを表わしています。しかし、今日のこのみ言葉には、その彼の孤独の苦しみは、表には現れていません。ここでは、ただ、残虐で圧倒的な力を持つ王として描かれ、その彼の残虐性と強大さをただ避けることしかできない無力な幼子イエス様と対立する王としてしか描かれていません。それは、私たちの孤独の苦しみが、周りには見えない、理解されないとうことを表わしているようにも見えます。

そして、ヘロデは19節に記されている通り、その孤独の苦しみの中で死んでいくのです。誰にも悼まれずにただ一人で。

「ナザレの人と呼ばれる」

では、私たちも、このヘロデのように、孤独の苦しみの中で喘ぎながら、誰にも悼まれずに、誰にも救われずに死んでいくのでしょうか。

今日のみ言葉は、その最後で次のように記しています。「ところが、夢でお告げがあったので。ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった。」

「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」イエス様一行は、ヘロデの死後も都であるエルサレムに戻ることができませんでした。それどころか、ユダヤから遠く離れた異邦人の地、ガリラヤ、それも、ナザレという小さな町に移り住まわれるのです。

それは、なぜか。それは、「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった」というのです。「預言者たちを通して言われたことが実現するため」。それは、つまり、『彼はナザレの人と呼ばれる』ためです。

「ナザレの人」、それは民数記6章に記されている「ナジル人」、つまり、イエス様が神に聖別された特別な人であることを示します。そして、そのイエス様がイザヤ書11章に預言されている「エッサイの根から出る」若枝、つまり、メシアであることを示すためです。神に聖別された、つまり、神の子であり、メシアであるイエス様が、まさに、平和で、安寧な時ではなく、ヘロデのような残虐な王が支配するこの厳しい時代に、無力な人間の幼子として、まさに、今、ここに現れたことを示しているのです。それも、ユダヤの都エルサレムではなく、異邦人の地であるガリラヤで。

「ガリラヤ」、それは、イエス様が後に、「『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められ」る地です。その地に、イエス様は、『ナザレの人と呼ばれる』ためにやって来られたのです。それは、異邦人の地であったイドマヤ出身という負い目の中で、その王位継承の正統性の不安の中で、そして、愛する妻や子さえ信じることができない「孤独」の中で生涯を終えたヘロデのように、今、その「孤独」の中にいる私たちすべての救い主として、まさに神の子として、私たちと同じ「孤独」を歩まれる人間として、今、私たちの前に姿を現されたのです。それは、私たちの隠された「孤独」を癒すために、私たちの「孤独」という飢えを満たすためにやって来られたのです。そして、私たちが、その「孤独」の苦しみの中で、犯した罪を、周りを間接的に殺した罪を贖われるために、やって来られたのです。

それは、私たちが、ヘロデのように「孤独」の苦しみの中で、罪の苦しみの中で、誰にも悼まれない中で死ぬのではなく、その「孤独」の苦しみを癒され、その犯した罪を赦されるために、あの十字架に架けられるためにやって来られたのです。今日の第一の日課であるイザヤ書63章9節には次のように記されています。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。」

神様は、まさに、私たちをその「孤独」の苦しみの中から、罪の中からお救いになられるためにご自分の御ひとり子をお遣わしになられたのです。そして、その「孤独」の苦しみをご自分の苦しみとして担われ、その罪をあの十字架によって贖われるのです。

降誕後の今、私たちは、まさに、その「孤独」の苦しみから、「罪」から解放され、喜びに溢れた新しい人生を、命を生きていくのです。

その喜びは、イエス様が『ナザレの人と呼ばれる』ことで、ユダヤ人だけではなく、異邦人である私たちに、全世界の、すべての人に伝えられた喜びなのです。この喜びに満ち溢れた新しい人生を、命を与えられたことを覚えながら新しい年を共に迎えていきたいと思います。

祈り

一言お祈りいたします。

聖なる主 全能の父 永遠の神よ。
今年一年をあなたのみ守りの中で、豊かに過ごすことができましたことを心から感謝します。
私たちは、自分自身を守るために、自分の正当性を主張し、周りを否定し、疑い、自ら、その疑いの中に、不安の中に、孤独の罪の中に追い込んでしまいます。
そのような闇の中にいる私たちに、あなたは、その愛するみ子イエス様を私たちと同じ、孤独を負う人間の姿で、その罪を贖ってくださるために遣わしてくださいました。そのお姿は、私たちにとって、まさに光であり、希望です。
どうか、その光の中で、希望の中で、また、新しい年も私たちが歩んでいけますよう守り、導いてください。
特に、今、様々な災害の中で、苦しみの中で、孤独の闇の中で喘いでいる人たちにのことを覚えます。どうかそのような人たちにもあなたの暖かな光が、希望が一日でも早く、もたらされますように切にお願います。
この小さき、祈りと感謝をあなたが遣わしてくださったみ子イエス様のお名前によって、み前にお捧げいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年12月26日 降誕後主日礼拝説教)