説教 「神の避難」  小泉 嗣神学生

マタイによる福音書 2:13-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

神の避難

イエス様の地上での生涯を振り返ってみますと、決して順風満帆とは言えない、いやむしろ、苦難の連続の生涯であると言えます。私たちにとっては喜びの日であるクリスマスですが、イエス様は設備の整った病院や家ではなく、暗がりの中で、しかも馬小屋でお生まれになりました。そして本日の日課においても、その幼子イエス様が殺害の危機に遭い、両親に連れられエジプトに逃亡する物語が語られています。

全能の神、その独り子であるイエス様が逃げる。神が避難するのです。イエス様は、立ちはだかる敵を蹴散らし、王道を歩む救い主としてではなく、私たちと全く同じ、一人の赤ん坊として、私たちと同じように泣き、母の乳を飲む赤ん坊として、この世に生まれたのであります。言うなれば、一人では何も出来ない、無力な、最も弱い存在として、神は自らの最も大切な独り子を、世にお遣わしになったのです。そして、本日の日課でもまた、イエス様は、自ら逃げることも、その敵に立ち向かう事もできず、ヨセフとマリアに連れられ、エジプトに逃げるのであります。

しかもイエス様がエジプトに逃げておられる間に、ヘロデによって多くの幼子の命が奪われてしまいます。当時のベツレヘムの全人口が200~300人だったそうですから、実際殺された幼子は20~30人ぐらいだったと言われていますが、私などはここで、人数の問題ではなく、ヘロデの殺意がただ同じ年頃だったというだけの理由で幼子たちに襲いかかった、その、なんともむごい、悲しい出来事に衝撃を受けるのです。

私たちは、一体、本日の日課であるこの神の避難の物語から、幼子殺害の物語から、どのような御言葉を聞くのでしょうか? この物語は私たちに何を語っているのでありましょうか? ひととき、共に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

< 三つの旧約の預言の成就~モーセとイエス >

本日の日課は3つの段落から構成されているわけですが、16節~18節の両側に置かれた13-15節と19-23節は、きれいに並行して記述されております。どちらも天使がヨセフの夢に現れ、彼に言葉を残し、そして彼はその言葉に従い、預言が成就したことを語り段落が締めくくられる。また、真中の段落においても、預言者エレミヤの言葉が実現したことが語られ、ここでも、幼子イエス・キリストの誕生告知と同じように、神の御旨が実現した事が強調されるのであります。

この私たちにとっては少し難解にも思える三つの預言の成就の言葉でありますが、マタイ福音書を読んでいた当時のキリスト者からすれば、非常にわかりやすい、自分たちを力づける言葉でありました。

一つ目の預言の成就は「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼らを呼び出し、わが子とした」というホセア書11:1節以下の引用であります。ここでは、イエス様が生まれるずっと以前、旧約の時代、エジプトの地に捕われていたイスラエルの民を、神が愛し、エジプトより救い出した物語がホセアによって語られているわけですが、マタイ福音書ではイスラエルと幼子イエスが見事に重なり合い、イスラエルの民がそうであったように、神の子イエス様もまた、神に愛され、エジプトより導き出すという神の御旨の成就が強調されております。

二つ目の預言の成就の言葉にはラケルという女性が登場します。彼女はイスラエル民族の父ヤコブの妻で、この預言の引用個所であるエレミヤ書31:15以下にはイスラエルの民がバビロンへ捕虜として連れていかれるのを見て嘆き悲しむ彼女の姿が描かれています。ヘロデという残虐なユダヤの王によって多くの幼子が殺され、その幼子たちの母の、嘆き悲しむ声がラケルの嘆き悲しむ声と重さなるのであります。

三つ目の預言の成就は、残念ながら私たちの持つ聖書に引用個所を見つけ出す事はできませんが、この「ナザレ人」という呼び名はマタイ福音書が読まれた地域では「キリスト者」の呼び名でもありました。イエス様を信じ、従ったキリスト者の群れとイエス様が、旧約聖書によって同じ呼び名を与えられているということは、マタイ福音書を読んでいたキリスト者にとって、どんなに勇気づけられる、力づけられる言葉であったでありましょう。

また、これら旧約聖書の預言の言葉と共に本日の日課を読み進めていくと、私たちは、このヘロデによる幼子の虐殺、イエス様のエジプトへの避難、そしてエジプトからの帰還という物語の一連の流れが旧約聖書の或る人物のたどった物語と重なりあうことに気づかされます。旧約の時代、ファラオというエジプトの王が、生まれてくるヘブライ人の男の子を、一人残らずナイル川にほうり込んで殺すように命令し、その危機を逃れるためにパピルスの篭に入れられてナイル川に流され、ファラオの王女によって救い出され、立派に成長し、エジプトからイスラエルの民を導き出した偉大な指導者モーセという人物がたどった道のりと、マタイ福音書で語られるイエス様のたどった道のりが同じであることに気づかされるのです。

マタイ福音書はここで、イエス様が、まさに、モーセと同じような、いやそれ以上の指導者であり、神の子、救い主であるということを語っているのであります。マタイ福音書の読者たちにとっても最もなじみの深いモーセの物語を通して、また預言者の言葉を通して、イエス様が旧約の完成者、新しい約束の完成者であることを、その方の道のりは神の御旨によって示されている事を語っているのです。

クリスマスの夜に生まれたイエス様はどのようなお方か?、その救い主としての道のりがはじめられるその前に、読者に向けて語りかけているのであります。

キリスト教における「最初の殉教者」

マタイ福音書が書かれた当時の読者にとって、本日の日課は、まさに、旧約の完成者、救い主イエス・キリストを指し示す力強い言葉でありました。では、彼らから2000年近くの時を隔てた私たちにとって、この物語は果たして、当時の読者と同じように受けとめることが出来る物語でしょうか?

この日課を読むとき、なるほど、確かにイエス様が旧約の完成者、私たちを導いて下さるお方である事はわかります。しかし、私は、一点、ヘロデによる幼子の虐殺という出来事から、どうしても目が離せない、手放しで受け入れられない現実があります。なぜ彼らは殺されなければならなかったのか?幼子の死が預言の成就であったなら、それが神の御旨なのか?と、どうしても問わなければ気がすまない現実があります。

この殺された幼子たちは、6世紀頃より、キリスト教の最初の殉教者として記念されるようになりました。カトリックでは今でも12月28日を幼子殉教者の聖日として守っています。この「殉教」という言葉は、私には少し縁遠い言葉ではありますが、自らの信仰に立ち続けることが結果的に死を招くことであると理解しています。この殉教という言葉は、キリスト教の世界だけではなく、他の宗教にも見られる言葉であります。隣国韓国ではノ・テウ(あるいはチョン・ドファン)政権下、弾圧に苦しむ民衆の抵抗運動の中で、宗教家が自分の体に油をかけて焼身の死を遂げていますし、インドやアメリカでの差別闘争の中で権力によって殺されていった人々も殉教の死を遂げたと言えるかもしれません。あるいは私は、自らの信仰に立ちつづけるために、自らの死と引き換えに他者の死を望むような暴力を殉教とは考えませんが、先日の世界貿易センタービル破壊のハイジャック犯もタリバンの側から見れば「殉教」であるということになるのかもしれません。

殉教が、自らの信仰に立ち続けることにより結果的に死を招くことであったとしても、ヘロデによって殺された子どもたちは、まだ神の名すら口にすることが出来ないほど幼かった、自分の信仰を選択する事すらできなかった、そんな彼らの死を「殉教」という言葉で言い表すことができるのでしょうか?

言い表してよいのだと思います。決して幼子たちが自らの選択により招いた死でなかったとしても、彼らの死によって幼子イエス・キリストの命が守られたのです、彼らの死が救い主イエス・キリストを示したのです。

私たちの内なるヘロデ

罪なき幼子たちの死、それはまたイエス・キリストの十字架の死をも指し示す死でありました。ヘロデのイエス様殺害の動機は「不安」と「怒り」でありました。アドベントの第一主日に読まれたマタイ福音書2:3には、東方の学者達からイエス誕生を知らされたヘロデが「不安を抱いた」と記されていますし、本日の日課である2:16には「大いに怒った」とあります。ここでのヘロデの振る舞いは、自らの権力に固執するあまり、不安にかられ、その不安が恐れや怒りとなってイエス様を十字架にかけたユダヤ教指導者、民衆たちの振る舞いと重なるものがあります。

私たちが神から離れてしまったとき、私たちはいつでも幼子たちの虐殺を命じたヘロデにも、イエス様を十字架にかけたユダヤ教指導者、民衆たちにもなりうるのです。この殺された幼子たちは結果的にイエス様の命のために殉教したかもしれませんが、彼らを死に追いやったのは、神の御旨ではなく、私たち人間の持つ不安や、恐れといった罪なのではないでしょうか?

共に苦しみを背負われるキリスト

そのような人間の過ちによって引き起こされる虐殺や悪事によってもたらされるものは、ラケルがそうであったように、嘆きや悲しみ、叫びやうめきであります。殺された幼子の母親は嘆き悲しむのであります。神に慰めをこうことすらできないほどの絶望の中で、嘆き悲しみ、涙を流すのであります。

どうしようもない絶望の中で母親は問うたでしょう。「神は一体どこにいったのか?」。しかし、神はまさに、その母親の嘆きや悲しみの只中におられ、彼女の嘆きや悲しみを心に止め、共に嘆き悲しみ涙を流しているのではないでしょうか?それゆえ、神は独り子をこの世にお遣わしになったのです。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に涙を流す方であります。

主イエス・キリストは、殺された幼子の痛み、残された母親の嘆きや悲しみを、共に背負われるのであります。彼らと共にいて下さり、その苦しみの只中にあって、彼らを慰めて下さるのです。

2001年を振り返って

2001年を振り返って見ると、決して良い事ばかりではありませんでした。戦争の世紀と言われた20世紀を終えてもまだ、戦争から解放されることはありませんでした。相変わらず大地は猛威をふるい、今なお行き場を失った人々がいます。これから迎える2002年がどのような一年になるかはわかりません、しかし、新しい年に起こる出来事の中で、神が心に止めて下さらないことは何一つ無い、それがたとえ絶望や苦しみ、悲しみの出来事であったとしても、神は心に止めてくださり、共に苦しみ、涙を流してくださいます。なぜなら、そのような私たちの絶望や苦しみの只中に、イエス・キリストは生まれたもうたからです。

エレミヤ書31:15のラケルの嘆きは、次に続く言葉で締めくくられています。
『主はこう言われる。泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。』

新しい年も、主と共に生きてまいりましょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年12月30日 降誕後第一主日礼拝 説教)