説教 「コンパッション」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 5:13-16

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

コンパッション

教会総会礼拝には毎年、その年の主題について説教がなされています。昨年は「Concentration コンセントレイション」という主題から「キリストへの集中、み言葉への集中」ということを考えましたが、今年は「Compassion コンパッション」という主題のもとに一年を過ごしてゆきたいと考えています。今年度の総会報告書には次のように書かせていただきました。

2002年の「コンパッション」とは、「同情」とか「憐れみ」と日本語に訳されることが多いのですが、もともとはラテン語で「共に苦しむ」という意味の言葉です。バッハの受難曲などもPassionと呼ばれています。この言葉を「熱情をもって事に当たる」と訳する人もいます。キリストはしばしば「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」ました(マタイ9:36。民数記27:17なども参照)。この「深く憐れむ」とは「内蔵」を表す言葉から来ています。「深い憐れみ」とは、日本語にも「断腸の思い」という言い方がありますが、はらわたがよじれるような痛みをもってキリストが私たち人間の苦しみをご自身の中心で受け止められたことを意味しています。十字架とはそのようなキリストの愛を他のどこよりも明確に私たちに示しています。これがコンパッションです。日本語で表せば「共感共苦」ということになりましょうか。ひと言で「愛」と言ってもよいだろうと思います。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とパウロは私たちに勧めていますが、キリストが私たちの苦しみを担ってくださったように、私たちもまたキリストの苦しみを担う者でありたいと思います。そして互いに苦しみを担う者でありたいのです。

「キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。」(ルター『キリスト者の自由』、石原謙訳、岩波文庫、p42)

はらわた痛む深い憐れみ

この教会とも深いつながりのあった北森嘉蔵先生は、『神の痛みの神学』の中で、神の義と愛のクロスする部分を神の痛みと捉えて、次のように語っておられます。「痛みにおける神は、ご自身の痛みを持って我々人間の痛みを解決したもう神である。イエス・キリストは、御自身の傷をもって我々人間の傷を癒し給う主である(ペトロ前書2:24)」(上掲書p25)。また、こうも語られます。「『そのうたれし傷によりてわれらは癒されたり』(イザヤ53:5)。キリストの死は『死の死』である。主は彼御自身死に給うことなくしては、我々の死を解決し給うことができなかった。神はいかにしても包むべからざるものを包み給うが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給うのである」(p28)。さらにはこう語ておられるのです。「神の愛に背いている罪人に来る神の愛、すなわち神の痛みの中においては、罪人は全く神に従順なる者として征服せられる。従順とは神の愛から離れないことであるが、今や罪人を捉える神の痛みからはいかにしても離れえぬからである。ここに起こることは罪人に対する神の勝利である。神の痛みの勝利は、この痛みをも突き抜けたひたすらなる愛、すなわち神の痛みに基礎づけられし愛である」(p56)。

これらの言葉は私たちにローマ書8章のパウロの言葉を思い起こさせてくれます。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8:35, 37-39)。

神の愛から、主イエス・キリストの愛から私たちを引き離すことができるものは何もないのだとパウロは言う。なぜか。それは、神ご自身がキリストにおいて私たちをしっかりとつかんでくださったからです。神の愛の力は絶大です。キリストは私たちの苦しみを御自身の苦しみとしてその「はらわた」、つまり存在の中心で引き受けられました。福音書の中で「深い憐れみ」と訳されている言葉も、英語で言えば「コンパッション」となりますが、内臓を表す言葉から来ていることは先に触れました。はらわたがよじれるほどの深い痛み苦しみをもって、キリストは人々の痛みや悲しみ、苦しみをご自分のものとして引き受けてくださった。そして十字架にかかってくださったのです。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、私たち自身の絶望的な叫びをキリストが背負ってくださったことを意味しています。

このような痛みを伴うキリストの愛から私たちを引き離すものは何もない。愛は死よりも強し! 私たちはこのキリストの共感共苦の愛を信じ、このキリストの深い愛の中に生きるのです。今年の主題のコンパッションはそのことを意味しています。

地の塩、世の光として生きる

本日の福音書の日課には、「あなたがたは地の塩、世の光である」というイエスさまの言葉がありました。私たちはこの人間の世界の闇を照らす灯火であり、それが朽ちてゆかないようにするための防腐剤としての塩なのだと言うのです。また、本日の旧約の日課であったイザヤ書58章には次のようにありました。「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、『わたしはここにいる』と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(58:6-10)。

マザーテレサは言いました。「愛の反対は憎しみではない。無関心である」と。無関心であること、苦しむ者に関わりを持たずに傍観者であることが、愛の対極にあるというのです。地の塩、世の光として私たちに何ができるかというと、キリストの愛をこの地上において輝かせること以外にはありません。教会はキリストの身体です。それは、今もなお、主イエス・キリストが私たちと共にあって生きておられ、その愛のみ業を、私たちを用いて、この地上に行い続けておられるということを意味しています。キリストの愛をこの世に証しするために教会は存続しているのです。

私は「愛」ということを思うたびに、思い起こす場面があります。遠藤周作の小説『女の生涯』の第二部に出てくる情景です。場所はアウシュビッツの強制収容所。そこには日本にもいたことのあるコルベ神父が自分のパンを倒れた者に与えてゆく場面が描かれていました。「ここは地獄だ」とつぶやくヘンリックという名の囚人に対してコルベ神父は言います。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではないのだよ。地獄とは愛のない場所なのだ。ここにはまだ愛がある」と言って、ヨロヨロとコルベ神父は倒れた人の所に歩み寄り自分のパンを与えてゆくのです。

愛とは深いあわれみをもって苦しむ人に近づいてゆくことであり、その傍らにあって共に苦しむことであり、自分の持っているものを差し出してゆくことであります。ルカ福音書10章の「よきサマリア人のたとえ」を思い出すまでもないでしょう。愛とはコンパッション、すなわち苦しみを共にすることなのです。地獄のように思える現実の中にも、キリストが降り立ってくださったがゆえに、そして十字架にかかるほどの真実の愛を貫いてくださったがゆえに、私たちは「ここはまだ地獄ではない」とコルベ神父と共に語ることが許されています。そのことを覚えつつ、小さなキリストとしてご一緒に一年を歩みたいと思います。

神さまが力と導きをお一人おひとりに与えてくださいますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 2月 3日 総会礼拝 説教)