マタイ福音書 5:38-48
樹海に迷う思い
山上の説教を読むと、私たちは深い森の中に迷い込んでしまうような気がいたします。そこは原生林で、いったん迷い込んだら抜け出ることのできない樹海のような場所なのです。もがけばもがくほど方角が分からなくなってしまい、闇に閉ざされてしまう。そのような魔の樹海。山上の説教は、読めば読むほど、それがあまりにも高邁無比であるために、私の立っている場が分からなくなる。自分の居場所がなくなってしまうと言ってよい。そのような厳しい戒めです。山上の説教のどの言葉も私たちが自明にしている私たち自身の存在の根拠を打ち砕くような、私たちをその根底から震撼させるようなラディカルで、ダイナミックな言葉です。正直、そう思います。市ヶ谷教会の渡辺純幸先生を中心として、牧師有志の7-8人が集まって毎月説教研究会を守っています。私が参加し始めてまだ2年も経ちませんが、それはもう13年ほど続いてきたそうです。何事も継続は力なりです。コツコツと積み重ねてきたその自主的な勉強会は、勉強会の後の時間と共に、刺激的かつリフレッシュなひとときで、私自身も楽しみにしています。やり方としては、毎回二人の人が当番となって次の月の2回の日課についてペーパーを用意してきて発題するのです。発題にはそれぞれ個性がありますが、釈義や黙想という点でたいへんに参考になりますし、説教という事柄に全力を注ぐ先輩たちの姿勢に私自身、身を正されるような思いがいたします。
前回は今日の日課を羽村教会の渡辺進先生が発表されたのですが、ディスカッションの中では牧師たちが異口同音に、主イエスの山上の説教を説教することは本当に難しいと語っておられました。律法主義的な説教になりやすいからです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という主の言葉を受けて、「私たちも頑張って完全無欠を目指して努力しなければならない」と、そういう説教になりやすい。しかし問題は、私たちが頑張る頑張らないということではないでありましょう。私たちにはどんなに頑張っても乗り越えることができない壁がある。行為による自己義認は成立しないのです。頑張ることで簡単にそのようになっていってしまう面もある。そのように考えると、私たちは深い樹海の中に迷い込んで出られなくなってしまうような気持ちになってゆくのです。
「恥」と「怒り」
「悪人に手向かってはならない」。だれがこのようなことを守ることができるのか。主の言葉は徹底した無抵抗主義を命じているように響きます。また、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とは、右の頬を打たれるということは普通ではない。左側を打たれるのが普通だからです。右頬を打たれるというのは相手が自分を手の平ではなく手の甲で打つことを意味します。それは屈辱的な行為なのです。そればかりか右頬を打たれたら左の頬をも向けよと言う。侮辱に徹底的に耐え忍びなさいということです。NHKの大河ドラマ『元禄繚乱』では前回ちょうど、恥をかかせた吉良上野介に浅野匠守が斬りかかるという「松之廊下の刃傷事件」を描いていましたが、『忠臣蔵』が日本人の心を捉えて離さないのは、命を捨てて主君の恥をそそいでゆく赤穂四十七士の仇討ちが私たちの溜飲を下げるところがあるからでありましょう。ルース・ベネディクトの『菊と刀』を引くまでもなく、まこと日本人は恥に敏感であると言わなければなりません。
徹底して恥を受け続けなさい、惨めさに留まり続けなさい、と主は言われる。「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせよ」とか「一マイルの強制的な徴用を強いられた二マイル行け」とは、実は、どこまでも無抵抗を貫き、辱めを甘んじなさいという恥辱的な命令なのです。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。いったいだれがそのような悔しさと恥辱に甘んじることができるのでしょうか。「目には目を、歯には歯を」なら分かります。「隣人を愛し、敵を憎め」なら分かる。 しかし、主はそうではないのだと語る。私たちは恥に対する怒りは抑えられない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」など守ることはできない。暗澹たる思いにさせられてしまいます。樹海に迷い込んで出れなくなるのです。
その意味では私たちも、永遠の命を求めながらも、主に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われて、がっくりうなだれ、悲しみながらその前を立ち去ったあの金持ちの青年と同じなのではないでしょうか(マタイ19:16-22)。
恥 shame は誇り pride、あるいは栄誉 honor とセットで考えられなければなりません。恥をかかされるということは誇りを傷つけられるということと同じです。ですからその時、私たちは猛烈に腹が立つのです。主の祈りの中で「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節がどうしても祈れず、引っかかってしまうという方は多いのではないでしょうか。私たちは自分の中に多くの未解決な怒りを抱えているからです。そしてそれらの怒りの多くは、恥をかかせられたという気持ちに基づいているのではないかと思われます。
それほどまでに私たちは身動きがとれない怨念の海の中に迷っています。それは主の弟子たちも同じでした。マタイ18章を見ると、ペトロがイエスのところに来て言います。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。私たちはペトロの気持ちがよく分かる。「あいつだけはどうしても赦せない。この怒りをいつまで我慢すればよいのか」という気持ちは私たちの心の中に常に響いているからです。そんなペトロに主はこう告げられました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:21-22)!これはとうてい不可能なことです。私たちは終わりのない怒り endless anger に縛られているからです。
実は「目には目を、歯には歯を」というのは「同害報復法」といって 、そのような人間のともすれば簡単にエスカレートしがちな終わりのない怒りにブレーキをかけている戒めなのです。目をやられたら目だけやりかえしなさい、歯を折られたら歯だけをやり返しなさい、それ以上の復讐をしてはならない。そういう意味です。それは至極もっともな、極めて現実味のある戒めです。しかし主は、そのようなリーズナブルな誡めを破棄してまで、弟子たちに怒りを棄てなさい、恥に甘んじ続けなさいと命じている。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言うのです。とんでもない。一体何を言おうとしているのか。私たちの内にはどこにもそのような力はないのです。私たちが不完全な存在であることをご存じのはずなのに、どうして主はこのような要求をしておられるのか。理解に苦しむうちに、次第に腹さえ立ってきます。
太陽の恵み、雨の恵み
主はだれよりも私たちの気持ちをご存じでありました。しかし、怨念という樹海の中に迷い込んで、出口のない暗澹たる思いの中にいる私たちの目を、主は天に向けられるのです。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。天の父なる神は悪人にも善人にも太陽の恵み、雨の恵みを分け隔てなく豊かに注いでいてくださる!これは青天の霹靂とも言うべき言葉であります。人間世界の悶々とした闇の中に、樹海の闇をさまよう者の目を、神の尽きることのない恵みへと向けてくださるのですから。私たちは私たちの闇の上に澄み切った青空が広がっていることを知らされるのです。「太陽の光の中に神の無限の恵みの豊かさを見よ。地表に降り注ぐ雨の中に天の恵みの深さを覚えよ」と言うのです。これはちょうど、ヨブ記の最後で、つむじ風(嵐)の中から神がヨブの前に現れて、天地創造のみ業を行っていたときにお前はどこにいたのかと問うた場面を思い起こさせます(ヨブ記38ー41章)。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。・・・お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。・・・光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。誰が豪雨に水路を引き、稲妻に道を備え、まだ人のいなかった大地に、無人であった荒れ野に雨を降らせ、乾ききったところを潤し、青草の芽がもえ出るようにしたのか」(ヨブ38:2-4、12、24-27)。
確かに太陽の恵みも雨の恵みも、それだけではない、風の恵みも、星の恵みも、月の恵みも、すべて命の恵みが、すべての人の上に注がれています。私たちの命はそのような天の父の恵みの元に置かれている。私たちはそれを知らずに、それをほとんど忘れて生きてきたのです。そう思うと、人間のつまらない恥や恨みや憎しみや怒りだけに囚われていた自分の小ささがとても恥ずかしくなる。
さらに山上の説教で見てゆかねばならないことは、それを語られたお方の生き方であり死に方です。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という言葉を文字通り最後まで実践されたお方がいる。それこそ主イエス・キリストです。あの十字架は主がその身に引き受けられた恥と苦しみのすべてを表しています。山上の説教を主の十字架と復活から切り離して、何か道徳的な倫理的な優れた教えとして位置づけることは誤っています。主は命賭けで語っておられる。悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせられる全能の父なる神は、その独り子をも惜しまずに与えてくださったお方でもあるのだ。あのみ子の十字架の血潮は私たちすべての者の罪と恥と恨みと悲しみをそそぐために流された。主の言葉によって私たちは、独り子をも惜しまずに与えてくださった天の父なる神の愛と憐れみの深さへと目を開かされるのです。そしてそのような主の言葉が樹海から抜けられないでいる私たちには絶対に必要なのです。主が私たちの目を神の慈しみへと向けてくださるがゆえに、私たちは神の愛、敵をも愛するアガペーの愛へと目が開かれてゆく。そしてそこからアガペーに生きる者とされてゆくのです。自分の力ではなく、自分には絶望する以外にないところで、主は神の愛に依り頼む生き方を与えてくださっている。人が自分の力に絶望するところから神のみ業は始まるのです。
私たちは、主イエスがそう導いてくださるように、私たちの目を天に上げたいと思います。その時にこそ私たちは、太陽や月や鳥に向かっても「ブラザーサン」「シスタームーン」と呼びかけたアッシジのフランシスコと同じように、世界に向かって開かれた態度で、「兄弟なる太陽よ」「姉妹なる月よ」「私の愛する者たちよ」と呼びかけてゆくことができるのだと信じます。ですから私たちは山上の説教の前で喜んで自分に絶望したい。そしてそれを語ってくださったお方の愛に、神の命の息吹に身を任せてゆきたいのです。
聖餐への招き
本日は聖餐式に招かれています。太陽の恵み、雨の恵みを私たちに豊かに注いでくださるお方が、その独り子をも惜しまずに与えてくださった、そのことを覚え、その恵み深さをご一緒に味わいたいと思います。お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。悲しむ者、苦しむ者たちの上に神さまの解放のみ業がなされますように。私たちが太陽の恵み、雨の恵みを深く味わうことができますように。 アーメン。
(1999年 6月 6日)