説教「偽物の見分け方~本物と出会う」 大柴譲治

申命記11:18-28、マタイによる福音書7:15-29

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「山上の説教」の終末論的結語

本日はマタイ5章から始まる「山上の説教」の最終部分、まとめの部分が福音書の日課として与えられています。マタイ福音書は主イエスを「新しいモーセ」と位置づけています。モーセがシナイ山において神から十戒(律法)を与えられたように、新しいモーセである主イエスは山上から新しい戒め(律法)を与えておられるのです。

イエスを信じる者がこの新しい神の戒めを守って生きること、これが本日の主題です。そこではただ「聞いて知るだけ」でなく「聞いて行うこと」が求められています。そのことは本日の日課の一番最後にある「家と土台」についてのたとえからも明らかです(24-27節)。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

ここで「岩を土台とする者」とされているのは「主の山上の説教を聞いて行う者」ということです。そこでは「聞くことと行うこと」は一つです。それに対して「砂を土台とする者」とは「聞くだけで行わない者」ということです。

当時のユダヤ教では、律法の最後は祝福と呪いの提示で終わるという習慣がありました。本日の旧約の日課である申命記11章はそのあたりを私たちに示しています。もう一度26-28節をお読みしておきます。

「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」。

このように神の御言葉は私たちの目の前に祝福と呪いの両方を置くのです。もちろん、私たちは祝福の方を選ばなければなりません。家と土台のたとえは主イエスが語る新しい十戒(律法)としてそれを聞く者に決断を迫ってきます。この「岩を土台とした家」と「砂の上に建てられた家」とは外見的には変わりないものであったことでしょう。もしかすると砂の上に建てられた家の方が立派に見えたかもしれません。しかし、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」と両者にははっきりと違いが出てきます。土台の違いが明らかになるのです。岩の上に建てられた家はしっかりと立ち続けるのに対して、砂の上の家はひどい倒れ方で倒れてしまうというのです。ここでは恐らく「終わりの日の最後の審判」が意識されていましょう。問題なのは外からは見えない土台です。私たちが岩の上に自らの人生を建てているか、砂の上に建てているかは、終わりの日の嵐の中でやがて明らかになるというのです。

この礼拝堂はノアの箱舟をかたどって建てられているのですが、創世記6-9章に記されているノアの大洪水を想起します。そこでは嵐と大水がすべてを飲み込んでしまったのです。人生にはそのような大洪水のような嵐が確かにあり、そのような無常な出来事が確かに起こるのです。オーストラリアの洪水や先週起こったニュージーランドの地震を想起します。19歳の若い命が突然失われるということは痛恨の極みです。被災者とご家族のために心から慰めを祈りたいと思います。

私たちには、嵐の中でもしっかりと立ち続けるために、天地万物は揺らいでも決して揺らぐことのない神の御言葉、キリストの岩という土台の上に人生を築いてゆくこと。これが求められています。

山上の説教を聞いて行うということは「神の御心を生きる」ということです。それは同時に「ただ神のみを神とする」ということであり、「神以外の何ものをも神としない」ということでありましょう。それは、本日の福音書の日課のすぐ前にあるように「狭き門から入る」ということです。滅びに至る門は広いですが、真実のいのちに通じる門は狭いのです(7:13-14)。

「偽預言者を警戒せよ」

日課に戻りましょう。イエスさまの言葉はいつも私たちをドキッとさせます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」(15節)。私たちの多くは、この言葉を通して、自分自身の中にある貪欲さ、自己中心性がイエスさまによって見抜かれているように感じるのではないでしょうか。私自身が「羊の皮を身にまとった貪欲な狼」ではないかという自覚があるために、ドキッとするのだと思います。イエスさまの言葉は私たちの罪人としての姿を映し出す「鏡」のようなものなのです。人ごとではありません。

「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(16-20節)。

私たちは「実」によって良い木であるか悪い木であるかを見分けられるというのです。そして良い実を結ばない者は皆、切り倒されて地獄の火の中に投げ込まれるというのです。それほど「良い実」を実らせることは重要であり、決定的なことだと主は言うのです。

続いて「あなたたちのことは知らない」と語られる主の言葉は、決定的な「ダメ押し」です。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(21-23節)。

主の言葉を聞くと私たちは「私は天の父の御心を行っているだろうか。果たして私は天国に入ることができるだろうか」と思い悩むのです。私たちの多くは自分の力で天国に入ることはできないのでありましょう。イエスさまに「あなたたちのことは知らない」と言われたらと思うと絶望的な気持ちになります。

山上の説教における主イエスの御言葉を聞くとき、私たちは自分が罪人の一人でしかないことをとことん知らされて行きます。私たちの中にある思い上がりは徹底的に打ち砕かれるのです。自分は天の国に相応しい者ではないということを自覚させられます。祝福と呪いの両方を提示され、祝福を選ぼうとしても私たちには呪いしか選べないのです。祝福を選んだと思っても、それは呪いでしかないのです。何と惨めな存在なのでしょう。誰がこの死の身体から救い出してくれるのでしょうか(ローマ7:24を参照)。実はそのことの認識が私たちには必要なのです。

ルカ福音書の18章では、イエスさまがファリサイ人と徴税人の二人が祈るために神殿に登ったというたとえを語っています(18:9-14)。

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

神は「打ち砕かれた魂」を喜ばれるのです(詩篇51:19)。

偽物の見分け方~本物と出会う

私たちは偽預言者を見分けることが実に難しいということを知っています。私たちはその実で木を知ることも難しいのです。私たちは見る目がありませんから、簡単に偽物にだまされてしまう。しかし主ご自身はそれを見抜かれるのです。私たち人間の中にある偽善性というものを鋭く見抜いておられるのです。その主の私たちのありのままの姿を見つめられるまなざしを思います。その罪を背負って主は十字架へとかかられたのです。

天の父の御心を行って天の国に入ることができたのは主イエス・キリストお一人でした。いや、もう一人います。十字架の上で主から「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた罪人がいました(ルカ23:43)。彼は十字架の上で、この地上での生の最後の瞬間に本物の救い主と出会ったのです。彼は呪いの中で祝福を選ぶことができた、否、祝福に選ばれたのです。主イエスの言葉はどれほど大きな慰めと希望を彼に与えたことでしょうか。私たちはこのような罪人の一人として主のあわれみに寄りすがるのです。そして私たちもまた「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と主に向かって祈る者とされたいと思います。

お一人おひとりの上に主の守りと導きが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年2月27日 顕現節第九主日礼拝説教)