ローマ1:8ー17、マタイ福音書7:15-29
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」
昨年の7月5日よりほぼ一年が経ちました。光陰矢のごとし。私にとっては二度目の諏訪教会との講壇交換となります。本日は山上の説教の締めくくりの部分が福音書の日課として与えられています。「実によって木を知る」にしても、「あなたたちのことは知らない」にしても、「家と土台」にしても、テーマは一貫しています。キリストの言葉を聴いて行うか行わないかが問題なのです。聴くだけではなく、そのように生きるかどうかが問われています。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(17節)。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。・・・わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(24、26節)。ここでは山上の説教をそのまま行うこと、そのまま生きることが弟子たちには求められています。キリストを信じるとはキリストに服従することであり、キリストのみ言葉に従って生きることです。
しかし、事柄は簡単明白であっても、実際に私たちが日常生活の中でそのように行うこと、生きることは簡単ではありません。いや、ほとんど不可能と言ってよい。私たちはうなだれてうつむいてしまいます。どうして主イエスは、私のような優柔不断で頼りなく、惨めな存在を弟子として選ばれたのか。主の言葉を聴いた先から裏切ってしまっているように私たちの多くは感じるのではないでしょうか。
ルカ福音書18章の、イエスさまのたとえの中の、祈るために神殿に上った二人の人物を思い起こします。ファリサイ派の人は「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、貫通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています」。一方、徴税人の方は、遠くに立って目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。私たちはしばしばこの徴税人と同じような気持ちになります。イエスさまの言葉に全くふさわしくない自分の姿を知っているからです。どうあがいても義しく生きることができずにいる私。私たちはその現実に圧倒されるのです。私たちは砂の上に家を建てた一人の愚かな人間にすぎない。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどい。そう思うと、私たちは自分の惨めさに恥ずかしくなる。旧約の日課である申命記11:26-28に重ねるならば、私たちは「祝福」ではなく「呪い」を受けなければならない、そう思います。
「われ福音を恥とせず!」
しかし、ここで私たちは目を転じて、パウロのローマ書の言葉をもう一度思い起こしたいのです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」(1:16-17)。これは大変有名な言葉であります。そこには「福音の力」という小見出しが付いていますが、パウロは「福音を恥としない」と言う。なぜならそれは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だから」だと語ります。
「恥」という言葉は実は聖書の中でとても大切な概念であります。それは独立した概念であるというよりは、「誇り」または「栄誉」と対になっている対概念と考えた方がよい。「われ福音を恥とせず」というのは「われ福音を誇りとする」という意味ですが、しかしそこにはもっと深い意味が込められているように思われます。「二重否定は強い肯定」というだけではない。そこにはパウロの自己認識が同時に語られている。パウロはここで、「われ自らは恥とせざるをえない。しかし、福音は恥としない!」と言い切っているのではないか。パウロはローマ書7章で、「わたしは何という惨めな存在なのだろう。だれがこの死の身体からわたしを救い出してくれるだろうか」と嘆いています。自分の中にある内在する罪の問題と格闘してそのように叫んでいる。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:15、18ー20)。
また、パウロは2コリント12章では「肉体の棘」に言及しつつ、次のように語ります。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12:7-10)。
自分の弱さを誇る。自らの惨めさを誇る。自らの恥を誇る。これはパウロらしい、極めて逆説的な言い方です。「我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人にも、すべて信ずる者に救いを得さする神の力たればなり」(文語訳)というローマ書1:16の言葉と重なる。自分自身を見れば、恥以外の何ものでもない。しかし、そのような私であっても、いやそのような私であればこそ、私は断じて福音を恥としない。福音の中に働く神の力に信頼するからである。パウロはそのように語っている。
さらにパウロは、ローマ書8章では次のように宣言しています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8:35、37-39)。神の愛から私たちを引き離すものは何もない。私たちは自らの力に信頼することはできなくともよい。キリストの福音に宿る神の力に信頼すればよいのです。われ福音を恥とせず!
見えない礎石
アウグスチヌスは『神の国』の中で次のように語っています。「二つの愛が二つの国を築いた。神をさげすむ自己愛は地上の国を築き、おのれを卑しめる神の愛は天上の国を築く。前者は自らを誇り、後者は主において誇る」と。自らを誇ろうとする自己愛と自らを無にしようとする神の愛。アウグスチヌスはそこでエロースとアガペーの二つの愛の根本的な違いを明確に語っています。アガペーの愛は無力な者に力を与え、新しい命を創造する愛なのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と遠くに立って、顔を天に向けようともせず胸を打ちながら嘆く罪人こそが、義とされて家に帰りました。実は、岩の上に建てた家というのは、そのようなキリストの愛、神様の憐れみという揺るぐことのない土台の上にすべてを信頼して委ねてゆく者の姿を表しています。自分自身の愛にではなく、神の愛の上に絶対的に信頼を置く、そのような生き方がここで示されている。そこでは、私たちの人生の見えない礎石は主イエス・キリストご自身であり、主の無限の愛なのです。聖餐への招き
本日は聖餐式に与ります。「これはあなたがたのために与えるわたしの身体。これは、罪の赦しのために、あなたがたと多くの人のために流す私の血における新しい契約である」と言って、私たちにご自身の命を与えてくださったキリスト。ここに私たちの命の土台があります。「わが恩恵汝に足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり」と告げてくださるお方の力強い声が、聖餐式を通して私たちに響き渡る。私たちはこの福音の力を信じ、この福音の力に依り頼んで生きるのです。「われ福音を恥とせじ」。パウロと共に、この土台の上に私たちの人生という家を建てることが許されているのです。そのことを覚えて心から感謝し、喜び祝いたいと思います。お一人おひとりの上に神様の豊かな祝福がありますように。悲しみや苦しみが慰められ、癒され、私たちにおいてただキリストのみ業が現れますように。 アーメン。
(1999年 6月20日 諏訪教会との講壇交換において)