説教 「神の憐れみの宣教者」  大柴譲治牧師

マタイによる福音書 9:35-10:15

 はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

本日の主題

本日は主題詩編として詩編100編が与えられています。

(1)全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
(2)喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。
(3)知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
(4)感謝の歌をうたって主の門に進み、
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
(5)主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。

その詩編は「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と歌っています。だから、「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」と告げられているのです。本日の福音書の日課では12使徒の選出とその派遣の出来事が語られていますが、その主題は「私たちは主に養われる羊の群れ」という事実を述べ伝えるということであり、その基調音は「喜び」であることを最初に確認しておきたいと思います。

本日の福音書の日課は三つの部分に別れています。新共同訳聖書ではそれぞれ小見出しが付いていまして、「群衆に同情する」「十二人を選ぶ」「十二人を派遣する」となっています。これは一連の流れの中で読んでゆく必要があるところです。イエスが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆に対して深い憐れみを抱かれ、町々村々を残らず歩き、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたこと。そして「収穫は多いが働き手が少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と祈り求める中で12人を選び立てたこと。そしてその12人が使徒としてイエスと同じことをして回ったことが報告されているのです。

「12使徒」とは「教会」のことを指していますが、キリストの教会には10:8にあるように「死者をも生き返らせる」権能さえ与えられている。これは驚くべきことです。教会はキリストの身体であり、教会はキリストの働きを継承するよう立てられており、教会を通してキリストは今もこの世に生きて働いておられるのだということが本日の福音書には示されているのです。福音を宣教することと癒しを行うことは一つなのです。

「イエス断腸」

「主の民、主に養われる羊の群れ」である私たちを、何をもって主が養ってくださるかということが9:35ー38までに示されています。36節には「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。あのステンドグラスにあるように、羊飼いである主の深い憐れみによって私たちは養われてゆくということが記されているのです。

佐藤研訳(『新約聖書翻訳委員会訳』岩波書店1995)によると、マタイ9:35-38までは「イエス断腸」という小見出しがついており、36節は次のように訳されています。

「さて、彼は群衆を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていたからである。」

これはなかなか味わい深い訳だと思います。「深い憐れみ」と訳されている言葉はギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という言葉ですが、それは「内蔵、はらわた」を意味する言葉から来ているからです。従って、「憐れみ」よりも「断腸の思い」という訳がふさわしいと思います。(岩波の訳では「スプランクニゾマイ」については脚注でこう説明されています。「内蔵は人間の感情の座であると見なされていたため、同語は『憐れみ、愛』などの意に転化、それが動詞化した」と。)

スプランクニゾマイという言葉を「同情」や「憐れみ」という日本語に訳すと、それらはどこか動きのない静的な響きがありますから、弱すぎてその意を尽くしていないと思うのです。やはりもっと熱く動的な「断腸の思い」がピッタリ来る。

ちなみに、このむさしの教会とも縁の深い『神の痛みの神学』で有名な北森嘉蔵先生は、「我がはらわた痛む」(エレミヤ31:20)というところからこの神のはらわた痛む愛を「神の痛み」と表現したことはよく知られています。私自身も「愛(アガペー)」という言葉よりもこの「はらわた痛むほどの深い憐れみ(スプランクニゾマイ)」という言葉の方がもっと具体的で、力をもって迫ってくるように感じています。愛=深い憐れみと理解していただいてよいと思います。

雨宮慧というカトリックの神父はこの言葉を次のように説明しています。神の愛ということをよく表していると思いますので、引用させていただきます。

「聖書でのはらわたは愛情やあわれみの情がうごめく臓器です。はらわたが活気づけば喜びが心に生じますが、逆に狭くなったり閉じたりすれば同情を欠き、他人に無関心になります。わたしたちのはらわたは、狭くなったり閉じたりしますが、決してそうならないはらわたがあります。それは神やイエスのはらわたです。・・・この動詞は新約聖書ではイエスに使われる場合がほとんどです。イエス以外に『あわれに思う』人物と言えば、たとえ話に登場する三人の人物、つまり一万タラントンの借金を帳消しにした『主人』と、『善いサマリア人』と、放蕩息子の『父親』です。これらの人物はいずれも神を表しているとも言えます。この動詞の用例が神やイエスに限定されるのは、理由のないことではありません。人間は同情しても事態を変えることはできませんが、神やイエスにはそれができます。ですから『あわれに思った』イエスは病を患っている人を清め、目の見えない人をいやし、やもめの一人息子をよみがえらせ、食べ物のない群衆のためにパンと魚を振る舞います。放蕩息子を『あわれに思う』父親は、息子として彼を受け入れ、新たな命を与えます。わたしたちが神のもとに戻るとき、神のはらわたは喜びにふるえ、わたしたちを子どもとして受け入れます。」(『小石のひびき』)

聖路加国際病院での臨床牧会訓練(CPE)での体験

この「スプランクニゾマイ」という事に関して私には忘れられない思い出があります。1985年、神学校の最終学年に築地の聖路加国際病院で臨床牧会訓練を受けたときのことです。当時のチャプレンであった井原泰男司祭がこう言いました。「ボクは患者さんたちの話を聞いていて患者さんが一番言いたいところになると胃がビクビクと動くんだよね。」

私にとってこれは一つの啓示とも言うべき言葉でした。はらわたで相手の気持ちを受け取る。これこそスプランクニゾマイということなのです。私は牧師となって、苦しみや悲しみの現実に立ち会いうことが多い生活を送っていますが、主キリストがはらわたがちぎれるほどに深い痛みをもって「牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていた」群衆を深く憐れんでくださったということの大切さということをよく考えます。キリストがこの悲しみ、痛みを共に背負ってくださる!だから私たちは主にすべてを委ねてゆけばよいし、それだけでよいのです。

人生の苦しみや悲しみの前で人間の言葉は全く力を失います。ただ沈黙する以外にはない、そのような現実の中に私たちは置かれています。今回のむさしのだよりの巻頭言にはワールドカップについて書かせていただきましたが、その試合が行われている最中にも、パレスチナでは自爆テロが起こり、韓国でも銃撃戦が起こり、世界中で暴力によって人々が毎日のように殺されてゆくのです。日本でも殺人事件が毎日のように報道されています。人間が敵意や憎悪や悲しみの中で非人間化されてゆくのです。あまりにも悲しいことが多すぎる。そう感じました。私たちはそのような群衆の一人なのです。

神の憐れみの宣教者

すべては「主の深い憐れみ」から事は始まってゆきます。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)。そして主イエスはそのような人々の苦しむ有り様を深く憐れみ、ご自身の存在の中心、はらわたのちぎれるような深い思いでもって受け止めてくださる。この神の痛み、キリストの愛を聖書は私たちに伝えているのです。十字架はそのことの頂点でもあるのです。本日は聖餐式が行われますが、この聖餐式もそのような深い神の断腸の愛を私たちに伝えています。

はらわた痛む共感力の回復

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と語ったのはマザーテレサでした。そのことによってマザーテレサは現代人の病いが無関心、無感覚、無感動、無関係というところにあると看破したのです。孤立や悲しみの中で私たちの人間らしい感覚が鈍麻し麻痺してしまうこと、それが現代の我々の問題なのです。ニヒリズムもそのヴァリエイションの一つでありましょう。そこに悪魔の力が働く。悪魔は人間を苦しめるだけではないのです。人間を苦しまない者にすることができればその思いを遂げることができる。悪魔とは人間の不信仰を告発する務めを持つ者だからです。信仰の反対は狭い意味の不信仰だけではないでありましょう。無関心、無感覚、無感動、無関係も不信仰の中に位置づけることができましょう。

私たちはおそらく、人間らしいはらわたがよじれるほどの「苦しむ力、悲しむ力」ということを回復してゆく必要があるのです。赤ちゃんの時には泣くことが仕事であったわけですが、私たちが涙を流すことができなくなって久しいように思われます。涙を流すということを回復してゆく必要があるのです。涙を流すことができる者だけが本当の意味で喜びを味わうことができるからです。主はまさにはらわたのよじれるほどの悲しみをもって、ご自身の内蔵(=中心)で、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人間の窮境を受け止められました。断腸の思いで受け止められたのです。そこからすべては始まってゆきました。

無関心、無感覚、無感動、無関係といったものをさらに深く分析してみると、それは他から孤立した孤独で自己完結的なあり方と言ってもよいと思われます。モノローグ的な生き方と言ってもよいでしょう。それに対してダイアローグ的なあり方、開かれたあり方、他とつながってゆくあり方がそこでは求められているのではないかと思うのです。「我ーそれ」という自己の異様に肥大化した世界で生きる者たちは、神と自己と隣人との間における「我ー汝」の人格的な応答関係を回復しなければなりません。主イエスの語る「アバ、父よ」という呼びかけのなんと力強いことでしょうか。

12人の派遣も、羊飼いとの関係を失った人々をもう一度羊飼いへと導く働きであると受け止めたいと思います。私たちはそのような者として派遣されているのです。主の深い憐れみと出会った者は変えられてゆくのです。人間としての苦しむ力、悲しむ力を回復することができる。そして、主の憐れみの宣教者として、それを人々と分かち合うために私たちはこの世の中へと派遣されてゆく。主の憐れみが到達しえない場所はどこにもありません。ルターも言いました。「もし私が地獄に行かなければならないのなら、喜んで地獄に行こう。なぜならキリストは地獄にもおられるからである」と。キリストの深い憐れみが到達しないところは世界の上にも下にもどこにもないのです。そのことに思いを馳せながらご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

苦しむ者、悲しむ者たちがキリストの深い憐れみによって慰められ、癒されてゆきますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 7月 7日 聖霊降臨後第7主日礼拝 説教)