コロサイの信徒への手紙 3:1-4 / マタイによる福音書 28:1-10
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。上からの光~使徒書の日課より
イースターおめでとうございます! 教会では一年中で今日が一番嬉しい喜びの日でもあります。十字架の上に死したキリストが三日目によみがえられた! 圧倒的な力を誇ってきた死がキリストによって突破され、死が死を迎えたのです。死は終わりではない。死の向こう側にある究極的な命が勝利した。ですから私たちは今日、大いなる喜びの日を迎えています。たとえ私たちが未だ絶望的な悲しみや苦しみの中にあるとしても、私たちはこの喜びの日を迎えているのです。確かにまだ夜は過ぎ去っていないかもしれません。しかし既に曙の光が射し登ってきている。それが復活日の意味であります。使徒書の日課のコロサイ3:1-4でパウロはこう告げています。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。どのような悲しみや苦しみがこの世において私たちを圧倒しようとも、すでに曙の光は私たちの所に射し込んでいる。そのことを大いに喜び祝おうではありませんか。
パウロは「あなたがたはキリストと共に復活させられた」と言います。だから「上にあるものを求めなさい」と勧める。そこではキリストが神の右の座に、栄光の座に着いておられる。曙の光の中にキリストの栄光が輝いている。だから私たちは上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにすべきなのです。
しかしそれはどのようにすればできるのでしょうか。パウロは言います。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と。私たちは死んだのだと言うのです。そして私たちの命は今はキリストと共に神の内に隠されていると言う。「隠されている」というのは「見えない」ということです。私たちは死んでその命は神の中に隠されている、見えないのだと言う。それが見えるようになる時はいつか。それは、私たちの命であるキリストが現れる時だというのです。その時に私たちもキリストともに栄光に包まれて現れるであろうというのです。
パウロは私たちがキリストと共に復活させられたと言いつつ、同時に私たちは死んで私たちの命は隠されていると言っています。上のものを求めなさいということは、神の内にキリストと共にある隠された命を求めなさいということでありましょう。私たちは生きるにしても主のために生き、死ぬにしても主のために死ぬのであります。生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものだからであります。
ここには上からの光が射しています。この地上においては悲しみと苦しみの多いイバラの人生、十字架の人生を歩まなければならないとしても、そこには復活の光が射しているのです。明るく輝いている。そしてその明るさはたとい天地が揺れ動くとも決して揺らぐことのない明るさなのです。イースターはそのような明るい神の復活の命の光の中に私たちを包み込んでくれる出来事です。この光に与るためには無条件、無代価でよい。私たちの側には何も要求されない。100%恵みです。
主は兄弟ラザロを亡くして嘆き悲しむマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる。また生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことはない」と。この主の言葉を信じる時に不思議なことが起こるのです。信じる者は不思議な上からの光に包まれるのです。苦しまなくなることでも悲しまなくなることでもありません。依然として私たちは苦しみと悲しみ、迷いと行き詰まりの中にあります。しかし、不思議な力が上から与えられて、それらを乗り越えてゆく道を備えてくれるのです。
パウロはだからこのように言うことができた。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:1-5)。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(2コリント4:7-11)。
復活の主のゆえに、「為ん方尽くれども望みを失わず!」(文語訳)なのです。
復活の主の「おはよう!」
本日の説教題は「おはよう」と付けさせていただきました。それはマタイ28:9に復活の主が二人のマリアに対して「おはよう」と挨拶をされたところから取られています。「おはよう」!? そんな言葉があったのかと驚かれた方もおられるかもしれません。私たちが長く親しんできた口語訳聖書では「平安あれ」と訳されていたからです。私自身も今回、新鮮な思いでこの言葉を聞きました。それは、私たちが復活に与る時に、最初に目を覚ました時に聞く言葉が主イエスのこの「おはよう」という挨拶であるかのように思うからです。そして、すでにこの地上にありながら、私たちは復活の朝日の中で復活の主のこの「おはよう」という挨拶に与ることが既にできていると思うからです。
この「おはよう」と訳されている言葉は、もともとは「ごきげんよろしく」というような一般的な挨拶の言葉でありました。原語を直訳すれば「(あなたたちは)喜べ」という意味の言葉です。
マタイ26:49(イスカリオテのユダがゲッセマネで祈るイエスに近寄り「先生、こんばんは」と言って接吻することから、主イエスが逮捕される場面)や27:29(十字架刑の直前にローマの兵卒たちがイエスを着物をはぎ取り、イバラの冠をかぶせ赤いマントを着せて侮辱する場面で「ユダヤ人の王、万歳!」)などの場面にも使われています。人間の裏切りの言葉、侮蔑の言葉が復活の主の「おはよう!」という挨拶の言葉によって変えられてゆくのです。復活の光に与る時に私たちの中では不思議なことが起こってゆく。
この「おはよう!」は、復活の主が私たちに対してなす挨拶の言葉であり、そして私たちがやがて主の復活に与る時、主のみ国において目覚めた時に聞くであろう主の挨拶の言葉なのです。ユダの裏切りや兵卒たち侮辱を超えて、それらを凌駕するようなかたちで復活の主は私たちに「おはよう!」と呼びかけてくださっている。その確かな呼びかけの声によって、上からの曙の光の中に、私たちは新しい命を生きるのです。
本日はこれからM.Mちゃん(小児洗礼)とE.T姉(壮年洗礼)の洗礼式、N.M姉のJELC札幌教会からの転入式が行われます。このイースターの喜びの日に、上からの光に照らされて、私たち武蔵野教会の一員として新しい歩みを始められる三人の上に、またそのご家族のお一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。
そして聖餐式を通して、上から照らされる朝の光が、「おはよう!」と呼びかけてくださる復活の主の尊いみ声が、私たちの悲しみ多い現実を造り変えてくださいますように。ここにお集まりの皆さんお一人おひとりの上に復活の主の祝福が豊かにありますように。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2005年 3月27日 復活祭 洗礼・堅信・転入・聖餐礼拝)