説教「空しく立ち尽くした者をも」大柴譲治

イザヤ55:6-9/マタイ福音書20:1-16

「 はじめに 」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「「ブドウ園の譬え」のどこに焦点を当てるか 」

本日はイエスさまの「ブドウ園の労働者の譬え」です。これはよく知られた譬えで、1時間働いた者も12時間働いた者も等しく1デナリオン、つまり一日分の給与を主人から与えられるという話です。この譬えはこの世に生きる私たちの「常識」を、「賃金」を「費やした労働時間」や「達成した業績」から測ろうとする資本主義経済構造そのものを危機に陥れるような「危険な話」でもあります。ですから私たちは、早朝から汗水流して働いた者たちの不平を言いたくなる気持ちがよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは!」 誰もが彼らの言葉をもっともだと思うのです。

しかし、イエスさまの譬えはいつも私たちに「あなたはどの立場からものを見ているのか」と鋭く問うてきます。「健康な者」「12時間働きづめに働くほどの強い体力を持った壮健な者たち」の立場から読むと彼らの不平不満はよく分かるのですが、もし「声無き者たち」の立場に自分を置いてみた場合に私たちはどう感じるでしょうか。

夕方5時に雇われた労働者たちも、恐らく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことができなかったのです。もしかすると、彼らは体格が貧弱でいかにも力がなさそうに見えたのかもしれませんし、動作が遅かったり機転が利かなかったのかもしれません。高齢だったり身体的なハンディがあったのかもしれない。強健な者から雇われていったのです。彼らにも仕事をしたい気持ちはあっても、何らかの理由で誰にも雇ってもらえなかったのでしょう。彼らは、どうやって家に帰ろうかと思いながら、5時まで空しく広場に立ち尽くしているしかなかったのです。

6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。主人からこの言葉をもらった時、彼らはどれほど有り難かったことでしょうか。彼らにも養うべき家族があったはずです。家には家族が空腹で父親の帰りを待っているかもしれないし、老いた両親を妻が看病しているのかもしれない。その背後には様々な人生が感じられます。朝から夕方の5時まで空しく立ち尽くした人たちの気持ちを私たちは容易に想像することができるように思うのです。

「 「神」の「深い憐れみ」 」

しかしそのように声を発することなく空しく立ち尽くしていた者たちを、主人は「はらわたが痛む」ほど深く憐れに思ったに違いありません。最後に来た1時間しか働かなかった労働者たちにも同じように1デナリオン、つまり一日分の給料を与えたブドウ園の主人。最後まで力なく立ち続けていた労働者たちの苦しい思いをこの主人は深く受け止めたのです。

それを見て不公平だと不満をぶつけた朝から働いた労働者に対して主人はこう言います。「『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』(13-14節)。主人の深い憐れみの心に触れた人々たちはどれほど深く心を揺さぶられたことでしょうか。これが毎日続くと人間は次第に堕落してゆくのかもしれません。皆が5時に広場に集まるようになってしまうかもしれません。しかしこの譬えが一番言いたいことから話を逸らさないようにしたいと思います。この譬えの中心は、「ブドウ園の主人」の、「弱い立場に置かれた人々」に対する「深い共感(=憐れみ)と愛」、そして具体的な「援助」という点にあります。

これは私たちに大きな気づきとを与えるイエスさまの譬えだと思います。イエスさまの譬えはいつもそうなのですが、私たちの心の琴線に深く触れてきます。それはブドウ園の主人である神さまが私たち人間一人ひとりの存在をどれほど大切に思っているかということを表しているからです。どれほど無力で惨めであっても、働くことができなくても、病弱であっても、寝たきりであっても、年老いていても、人生に失敗ばかりしていても、あるいは人間関係に苦しみ、空しく一日中立ち尽くすほかないような状況にあったとしても、神さまは等しく私たち一人ひとりを、ご自身の深い憐れみのゆえに、その空しさの中から探し出し、見出してくださる! そのような窮境から私たちを救い出してくださり、神さまのブドウ園の中に置いてくださるのだということを私たちはこの譬えの中に読み取ることができるのだと思います。「あなたはわたしの眼に価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」というイザヤ書43:4のみ言葉を想起します。この神の愛と出会うこと、このような神の愛に捉えられていることに気づくことが最も重要なのです。

「Doing(行為)の次元ではなく、Being(存在)の次元で」

Doingの次元ではなく、Being、存在そのものの次元で、神さまは私たちを愛してくださっているのだということをイエスさまはこの譬えで私たちに教えておられるのです。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)という言葉が最後にありますが、それは一番最後になった者、最も小さき者、最も弱い者、最も貧しい者、最も苦しんでいる者に対する神さまの優先的な選びがあるという宣言です。これに対して人間は不平を言うことはできない。それは、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)と言われているように「主権者である神の自由」に属する事柄なのでしょう。ヨハネ3:16が宣言するように、「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで永遠の生命を得るため」なのです。

能力の高さや業績の量や体力の強さや知恵や知識の深さや、ましてや若さなどではなく、私たちには生命の重みという次元において等しく神さまから恵みとしての一デナリオンを与えられているということだと思われます。一デナリオンは労働者一日分の賃金であると言いました。一家族が一日生活できるお金です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と主の祈りでは祈りますが、かつてイスラエルの民が荒野において天からのマナ(日ごとの糧)によって生かされたように、私たちは神の恵みによって日ごとに生きる、生かされるのです。ここでの一デナリオンとは神さまの無償の恵みを表しています。それは自分の努力で獲得したものではありません。当たり前のものでもないのです。それに値する何ものかが私たちの中にあるからでもありません。それは神さまからの一方的で、絶対的に無条件の恩寵なのです。溢れる恵みなのです。それに気づく時に私たちは、神さまの恵みの光の中で一人ひとりが空しく立ち尽くしていたところから呼び出されて神のぶどう園で働く者とされていることを知るのだと思います。

それは本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書が預言していた通りです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8-9)。

独り子を賜るほどにこの世を愛してくださったお方のこの呼びかけの声を心に響かせながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの恵みが豐かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

お一人おひとりの上にそのような確かなキリストの愛と平和がありますように。アーメン。

「おわりの祝福」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。


イザヤ55:6-9/マタイ福音書20:1-16

(2011年10月9日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教)