マタイ福音書25:1-13
「 はじめに 」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。
「 10人のおとめの譬え 」
本日は10人のおとめの譬えです。備えができていた賢い5人のおとめと備えができていなかった5人の愚かなおとめの違いは明らかです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という最後の言葉がキーワードです。いつ「その日、その時」、つまり決定的な日が来てもよいように目を覚まして準備をしておく必要があると主は言われているのです。
ここで「10人のおとめ」とは「花婿たるメシア・イエスの到来を待ち望む者」のことを意味しています。花婿の到着が遅れるということは再臨が遅延していることを指していましょう。迫害の下にあった初代教会ではそれが大問題であったに違いありません。厳しい迫害の中で、信仰の炎(油)をなくしてしまった人たちは少なくなかったのでしょうか。「閉ざされた戸」とは最後の審判を指し、そこから救いへと入れられなかった者を意味します。確かに5人の賢いおとめたちだけが与ることができた「婚宴の席」とは、来るべき時代の喜びを意味していましょう。そこでは喜びの祝宴が約束されているのです。
この「油」とは何を意味するか。ルターはそれが「信仰」を意味していると言いました。またある人は、マタイ24:12に「終末時には多くの人の愛が冷える」とあることから、「愛の行い」を意味すると考えました。また、マタイ福音書が強調する「良い行い」を指していると考えた人たちもいます。しかし、「愛の行い」「良い行い」というものは最後の審判を前にして燃え尽きるのか、また、そうした行いは店で買うことができるのかというと、うまく説明することができない部分が残ります。
「目を覚ましている」とは「眠らないでいる」ということとは違うでしょう。賢いおとめたちも眠り込んでしまったのです。それは、起きている時にも寝ている時にも、常に「その日、その時」に備えて準備をしておくということでありましょう。
「 父クリストフ・ブルームハルトの馬車 」
19世紀後半から20世紀初頭のドイツに生きたクリストフ・ブルームハルトという牧師がいました。親子で同じ名前でしたので、「父ブルームハルト」と「子ブルームハルト」と呼ばれたりします。これは父親のブルームハルトについてのエピソードです。彼はいつも牧師館の庭に、まだ誰も乗ったことのない新しい馬車を用意していたそうです。今で言えば、車にガソリンを満タンにし、冬でもバッテリーが上がらないように怠りなく整備していたということになりましょうか。そして「あの馬車は何のためか」と人から尋ねられると、「主イエス・キリストが再臨される時、自分がそれに乗って直ちにそこに駆けつけて、主をお迎えするためなのです」と答えました。
私たちはこのエピソードを聞くとき、どのような思いになるでしょうか。エッと驚き、そんなバカなと吹き出してしまう部分も私たちの中にはあるかもしれません。あるいはその対極に、ハッとして、自分も自らの生き方を顧みなければならないと思う部分も私たちの中にはあるのかもしれません。ブルームハルトは、今日のような主イエスの言葉をそのまま信じて、いつ来るか分からない「その日、その時」に真剣に備えていたのです。今日は先ほど小児祝福式を行いましたが、ブルームハルトは「幼子のような信仰」に生きた人であったと言えましょう。
もちろん彼はそのように「純真な信仰」に生きようとした人でしたが、決して「単純な信仰者」ではありませんでした。彼は、神学だけでなく種々の領域に通じた知識人でした。私たちと同様に、深く懐疑的な時代精神の中に生きていた同時人でもありました。にもかかわらず、ブルームハルトはキリストの再臨に備えていつも新しい馬車を待機させていたのです。それが自分に与えられた使命であると信じたからです。ちょうど旧約聖書の創世記で、神の声を聞いたノアが大雨の降り始める前に箱舟造りを始めたのと同じです。多くの人の目にはそれがどれほど愚かに、異様に見えたことでしょう。ブルームハルトは、それらのことはみな承知していただろうと思います。愚かさを承知の上で、キリストの言葉をただ信じて、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と信じたのです。これがブルームハルトの信仰でした。
「 井上良雄先生の『神の国の証人ブルームハルト父子』 」
長くルーテル神学校で非常勤講師として教えたドイツ語の先生に井上良雄という日本基督教団の信徒がおられました。戦前は優れた評論家として活躍していたのですが、突然筆を折って評論家を辞められた方でした。そして戦後は、ただひたすら、カール・バルトという神学者の『教会教義学』を吉永正義先生と共に日本語に訳された先生です。吉永先生が「創造論」を、井上先生が「和解論」を訳されました。私もボンヘッファーやバルトの黙想などをクラスで読んでいただき、その真理への真摯な姿勢にいつも背筋を正される思いがしていたものです。その井上良雄先生が『神の国の証人ブルームハルト父子』という本を書いておられます。井上先生はカール・バルトの本を通してバルトが大きな影響を受けた人物ということでクリストフ・ブルームハルトという人の存在を知ったということでした。
特に父ブルームハルトは、パウロ同様、終末切迫を感じ取っていた牧師でした。だからこそ、主の再臨の時に直ぐ駆けつけることが出来るように自分の牧師館の庭に馬車を用意していたのです。ブルームハルトは、信仰の灯火が消えないように、その霊的エネルギーが切れないように魂に聖霊を充填することを怠らない、終末的な緊張に生きるということを日々の生活の中でとても大切にしていた人であったと申せましょう。
父ブルームハルトは「待つこと、急ぐこと」という彼の感覚をよく表す説教を書いています。「終わりの日を思う者は(しかも、その日に向かって急ぐかのように、終わりの日を身近なものとして思う者は)無気力な霊的怠惰や無関心や呑気さから守られる。われわれは急ぐ者として生きるのだ。われわれは、この世における全ての偉大なもの、生起するすべての力強いものに、無際限の価値を与えることはできない。われわれは、一切を、一層平静にまた気楽に眺める」。
そう言って、ブルームハルトは1コリント7章のパウロの言葉を引用するのです。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(1コリント7:30-31)。
そして続けます。「その結果、われわれは、(地上のどんなに魅力的なものであっても)何事にも過度に巻き込まれることはなく、無我夢中になることがない。過度の感激や悲しみに我を忘れることはない。何事にも、過度の興奮や偶像崇拝的な態度で没頭することがない。… 心は、主が来たり給うということだけに固着する。彼が速やかに来たり給うことを渇望しつつ」。
井上先生はそれに対して次のようにコメントしています。「ブルームハルトは、この世におけるあらゆるものを暫定的なものとして見、相対化せざるを得ない。彼にとって地上の全ての現実は、やがて始まる大いなる朝の光の前に消えてゆく夜の闇に過ぎない」と。
ブルームハルトのこの終末的な姿勢は「待ちつつ急ぎつつ」という一言で表現されます。「待ちつつ急ぎつつ」? 「待ちながら急げるのか?」「急ぎながら待てるのか?」とも思います。そんな相矛盾する生き方が果たして私たちに可能なのでしょうか。油を備えて花婿の到来を待つというのは、「その日、その時」が近づくのを、終わりが近づくのを意識しながら、それに向かって自分を整えてゆくということを意味しています。
終わりは近づいている。「その日、その時」は必ず来る。そう聖書は私たちに告げているのです。私たちは教会暦の終わりを迎えようとしています。来週が聖霊降臨後の最終主日で、教会暦においては一年の終わりとなります。二週間後からはアドベント、待降節が始まり、新しい一年が開始されるのです。終わりを意識して、新しい一日を始める。身を正して主の到来を待ち望む。これが私たちに求められている生き方なのです。
「その日、その時」がいつ来るのかということは、私たちに死がいつ来るのか分からないように、私たちには分かりません。しかしその日、その時がいつ来るにしても、私たちは私たちの最後を主イエス・キリストにお任せすることが許されています。イエス・キリストにおいて準備万端に整えておくように、賢い乙女たちのように油を備えて待つように、ブルームハルトのように心の中に自分の馬車を用意して「急ぎつつ待つ」ように、私たちは日々の信仰の中に召し出されているのです。向こう側から私たちに近づいて来て下さるキリストを見上げて今を生きるよう招かれている。そのことを心に刻みつつ、近づきつつある主に向かって身を正して新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。
お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。 アーメン。
「 おわりの祝福 」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
マタイ福音書25:1-13
(2011年11月13日 聖霊降臨後第22主日礼拝説教)