説教 「クリスマスへの備え」 マリー・ルー・ペティジャン宣教師(大柴訳)

マルコ福音書 1: 1ー 8

懐かしいクリスマス

私の祖父母の周りにはいつもクリスマスには大勢の人々が集まっていました。そして私の国では多くの家庭にとってそうであるように、今でも祖父母の家というものはクリスマスが出来事として起こる場所なのです。ソフト祖母の家は私たちの家族にとってもそのような場所でした。

クリスマスのためには何週間もの準備期間がありました。私の祖母はクリスマスの休日の期間が大好きで、家に多くの人が集まるのが大好きでした。そしてクリスマスが出来事として起こるための準備で祖母は大忙しでした。祖母はクリスマスの一月前から準備を始めて、クリスマスの日にピッタリ間に合わせたものでした。

他方、私の祖父はというと、それらすべてのことに対して気難し屋でした。何に対してもぶつぶつ言って、祖母がいったいどれぐらいクッキーを焼いたりプレゼントを買うために時間を費やしたりお金を費やしたりするのかをこぼしていました。祖父はぶつぶつ言いながらもよく新聞で顔を隠していました、笑顔を隠すために。祖父の小言は実は祖母のクッキー作り同様、クリスマスのための準備の一つだったのです。

私の祖母が亡くなったときに、家族全体にとってクリスマスの意味が変わってしまいました。祖母がクリスマス休日のため大騒ぎしたすべてについて不平をこぼしていた祖父でしたが、祖母をもう一度取り戻すためには祖父はこの世でできることは何でもするだろうということがはっきりしたのです。けれども、祖母は逝ってしまって、戻っては来なかった。祖父はついにこういう言葉を語ったのです。「準備するということがクリスマスの一番大切な一部分なんだ。お前のおばあちゃんの絶え間ない準備なしにはその精神は失われてしまったんだ」と。

何年か後に祖父も亡くなり、今やクリスマスは、祖父母の家で何週間もかけて準備した時のあの懐かしいクリスマスとは違う、何か全く別のものとなってしまいました。あたかも私たちはクリスマスのためのそのような準備の時はもう持たないかのようになっていて、そして私の姪や甥たちがそのようなすばらしいことを体験できないことを私は恐れます。私たちがクリスマスのために極めて意図的に真剣に「準備する」ということをしない限りは。

祖父は次の一点で全く正しかったと言えましょう:備えるということはクリスマスの一番大切な部分の一つなのだという点で。マルコによる福音書は準備のテーマで始まっています。イザヤは数百年前にこう語っています。「荒れ野で叫ぶ一つの声がある。『主の道を備えよ』と。」

アドベント(待降節)の中心的な意味の一つは神の民がクリスマスにそのご降誕が祝われるキリストの到来に向けて準備をするということです。

クリスマスへの準備

私たちはクリスマスの準備のために多くの時間を費やします。パーティーがあったり、特別なプログラムがあったり、特別礼拝など。しかし、備えるということは霊的な事柄であるということが常に明確であるわけではないと思われます。アドベントは私たちに季節の準備と霊的な準備の間の違いの大きさを知るためのよい機会を与えてくれます。

クリスマスシーズンという季節の準備は、私たちすべての者にとって身近なものであり、おそらくは少し恐れおののきつつ迎えるのでしょう。日本では、季節の準備は新しい年の準備という形の中で来るようです。私の国アメリカでは、そしてここにおられる皆さんの多くの方にとっても、クリスマスツリーの光の飾り付けやクリスマスカードを書いたり送ったりする準備の時として過ごします。大くの人は年賀状を送ることに結びつけることができるでしょうが。クリスマスパーティのための買い物や、子供のプログラムやページェント(劇)の準備などもありましょう。親たちは子どもたちがテレビコマーシャルで見て欲しがる新しい装置を買うために店を飛び回るのかも知れません。店は人気商品を確保することが難しく、ある人は20ものお店を走り回って、ずいぶんと値の張ることになった探していた商品をようやく見つけだすのでしょう(フウー)。

私たちの皆が、クリスマスと新年の準備のためのうれしい、またそれほどうれしくない経験を持っています。しかし状況がどうであれ、私たちは皆、そのような準備が一年のこの時期の一部をしめる、季節的な準備であることを知っています。私たちはまたこの時期の準備が私たちにもたらすプレッシャーを理解しています。枠時は少なくとも一つの体験を持つのでありましょう。カレンダを眺めて、「一体、この世で私の時間はどこにいってしまったのだろうか」と。

この「この世界でどこに?」というのが大切なキーワードです。「この世」というのはこの「外的な世界」のこと、この世俗的な現実(キリスト教?)世界のことです。しかしこの世界以外の世界があって、私たちが注意を向けることと備えることを求めているのです。

霊的な準備

霊的な準備というものはそれほど明白ではありません。もし私たちが季節に入って、すべてクリスマス的なことをなし、教会に出席し(特にクリスマスイブに)、そして私たちがクリスマスを祝い、クリスチャンとしての義務を果たしてゆくならば、霊的な準備という概念を考えてゆくことは容易だと思われます。

真の霊的な準備とは、しかしながら、それ以上の事柄を意味しています。それは一人の奇妙な男の叫びをもって始まるのです。彼は荒れ野に住み、主の道を備えよと厳しく説教したのです。

彼は二千年前にそのようなメッセージを語りました。私たちは毎年それをこの時期に聞きますので、そのメッセージに慣れ親しんでいます。それにも関わらず、ラクダの毛衣を着、イナゴを食べ、荒れ野に住むその男は奇妙です。それは、私たちがクリスマスの準備に疲れ果ててしまうときに、それにも関わらず私たちが本当には主の道を備えていないということを示唆する者と同じぐらい奇妙です。

この男は何を言っているのか?そしてなぜ人々はエルサレムから彼から厳しい言葉を聞き洗礼を受けるために長い旅をしていったのか?

第一に、洗礼者ヨハネの言葉を聞きに行った人々、ヨハネの悔い改めの洗礼への呼びかけに応答した人々は私やあなたと全く異なる人間ではなかったということです。彼らが住んでいる世界はこの現代社会とはずいぶんと異なっていたでしょうが、彼ら自身は人間としては私たちと異なってはいなかった。どの点から言っても、彼らは自分たちが神を信じる信仰者であると考えていました。多くは礼拝に出席したし、神殿での宗教的義務も果たしてきたことでしょう。一部は聖職者(宗教者階級)でもありました。

第二の点は、ヨハネのもとにやってきた人々の多くは自分たちが霊的(信仰的)な人間であると考えていたという事実にもかかわらず、ヨハネの語った何かが彼らの魂の核心を打ったのです。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

全く驚くべき言葉!「わたしは値打ちもない」とは!洗礼者ヨハネこそ宗教的であり、昔の預言者のように生きた真実聖なる人間であるはずなのに!おそらくは恐ろしい人間であったでありましょう。ヨハネの言葉を聞く者を不安にする点はここにあるのです。もしこの男が、やがて来たるべき聖なるお方の「履物のひもを解く値打ちもない」とするならば、一体私たちはどうなるのか。

クリスマスの準備の中で最も基本的なものの一つは、キリストの到来に備えるということであり、私自身の内的な生活の真剣な目録を造るということなのです。

ヨハネのメッセージにおいて大切な第三の点は、彼が荒れ野から叫ぶ声であることです。「主の道を備えよ」!お分かりだと思います。それはクリスマスの休日のための準備ではないし、仲間たちのための準備でもなく、クレジットカードの決済限度額についての備えでもない。主のための備えなのです。

このことは、「言葉が肉体を取って私たちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)というキリスト教のメッセージの心臓部分(ハート)を想起し、思いめぐらすための呼びかけ(コール)なのです。大変によく知られた一つのスローガンがあります。それは「イエスこそこのシーズン(季節)のリーズン(理由)である」という言葉です。私たちはクリスマスの本当の理由を忘れるほどに季節的な準備に囚われてはならないのです。

日本のクリスマスは私にとってたいへん興味深いものです。あらゆる種類のクリスマス用品、クリスマスツリー、クリスマスカード、クリスマスデコレーション、パーティなどがあります。このことは何がこのシーズンの理由であるか、最も曖昧な考えに満ちています。私たち信仰者はなぜクリスマスなのかを心に深く刻まなければなりません。私たちは今、人類の歴史において最も偉大な出来事の準備の時を過ごしています(もう一つの頂点にある出来事は主の復活です)、そして洗礼者ヨハネが問題としたように私たちは、聖なるお方が私たちの人生のただ中に入って来られるのを魂を吟味して(身を正して)準備するべきなのです。それこそがあの讃美歌『もろびとこぞりて Joy to the World』の英語の歌詞の中にある「Let every heart prepare him room(すべての心に主をお迎えする場所を準備させなさい)」の意味なのです。

「主の道をまっすぐにせよ」

最後の点は、ヨハネが彼の世代の人々に向けて語ったとき得た反応を解く鍵になることですが、次の言葉に関係があります。「主の道を整えよ」、すなわち「その道筋をまっすぐにせよ」という言葉です。

「(主の)道をまっすぐにする」とは文字通りには道を水平にする、平らにするということです。換言すると、神が私たちの生活(人生)に入ってきてくださる道は、障害物のない、通り抜けやすいものであるべきだということです。私たちの人生にキリストが入られるための入り口が「困難な闘い」であってはならないのです。

イザヤの預言を読み、それを思いめぐらすとき、私には二つのことが頭に浮かびます。

(1)アドベントのシーズンには多くの残骸や混乱が私の生活にはある(日常的なものには触れないこととします)。正直に告白しなければなりませんが、私は洗礼者ヨハネの「主の道を備えよ」という中心的な呼びかけから余りにも容易に心が離れ去ってしまうのです。あたかもこの世は主以外のすべてのことについて準備せよ(でも、主のためには準備するな)とでも言うかのようです。しかし、この現実のただ中で聖霊は私自身にキリストをお迎えするために心に余地を作りなさいと呼びかけています。

(2)私の生活に主がお入りになるための平らな道作りをするということは、それが困難な上り坂とならないように、私に優先順位をつけること priorities について語りかけます。この問いは少し困惑させるものですが、必要です。もし私が次の2-3週間の計画(アジェンダ)の本当の優先順位のリストを書くとすれば、私はもう一度優先順位を付け直す必要があることが苦しいまでに明らかになることでしょう。

ヨハネの悔い改めへの呼びかけは、私の生活の高速道路に散乱したあらゆるものから方向転換するよう呼びかけています。そしてこの(アドベントの)期間、私の主との関係こそ優先されるべきであるということを呼びかけています。

アドベントは毎年私たちに新しくなること(renewal)を呼びかけています。キリストが私たちの人生において保とうとされる場所を思い起こし、それを新たにするための呼びかけです。商業的(コマーシャル)な季節という荒れ野において、荒れ野の説教者からの声がもう一度私たちに響いてきます。

「キリストのための場所をあなたの人生の中に用意しなさい。主がお入りになりやすいようにそれを整えなさい」。

(1999年12月5日  待降節第2主日礼拝)

○マリー・ルー・ペティジャン宣教師は米国アリゾナ州出身。高校の体育の教師として23年間働いた後、カリフォルニア・バークレーにある太平洋ルーテル神学校を卒業。2000年3月までJ3短期宣教師として現在東京で働いている。むさしの教会では月二回、初級英会話教室を担当。