説教 「仕える天使たち」 大柴 譲治

マルコ福音書 1:12ー13

お守りの忘れ物

先月、網膜剥離で入院したとき6人部屋になりました。本日はそのとき同室になったお一人の方についてのお話から始めさせていただきます。

その方は80才の男性でした。自分の意志の力に頼ってこれまで道を切り開いてきたという強者です。戦争中は6人乗りの飛行機のパイロットとして4回も墜落を経験したことがあるそうです。また、長崎駅で原爆の直撃を受けて軽い白血病になったにもかかわらず、何とか頑張って生き延びてきたという人でした。昨年、心臓バイパスの手術と一年余りにわたる入院にも耐え抜いた。今回も眼の手術を受け、医者からはこれ以上よくならないと言われたのに何とか自分の意志の力で治してみせると頑張っておられました。不屈の闘志を内に秘めておられた方でした。

その方は私の二日前に退院してゆかれたのですが、後から看護婦さんがベッドに忘れられていたお守りを見つけて追いかけてゆきました。およそお守りとは縁遠い人との印象でしたので、私にとって意外でもありました。

それはもしかしたら奥さんが持たせたものであったかもしれません。お守りを大事にする姿の中に自分と同じような弱いありのままの人間を感じて何かホッとします。病いと闘う中で私たちは徹底的に自分の無力さを思い知らされますが、自分を超えたところに依り頼もうとする気持ちはよく分かるのです。お守りとは眼に見えないものに頼ろうとする姿勢を表していますし、また孤独な中にも愛する者とのつながりを目に見えるかたちで示しているのかもしれません。

「信仰」というお守り

私自身はお守りは持たないのですが、もしかすると私たち自身も知らないところで「目に見えるお守り」のようなものを大切にしているのかもしれません。例えば、十字架であるとか尊敬する方からいただいた聖書であるとか、聖句を書いたカードであるとか家族の写真といったものをです。さらに言えば、私たちは「信仰」というものを「目に見えないお守り」として大切にしているのではないかと思います。

私は今回の入院と手術を通してそのことを強烈に教えられたように思いました。眼の手術は局所麻酔で、逃げ出したいような2時間半の手術中、私の慰めになったことが二つありました。一つは、目に繰り返し注がれる水(生理食塩水)。まぶしい手術用ライトの前にずっと眼を開けていなければならなかったわけですが、渇いた眼にはその水が本当にありがたかった。鹿が谷川の水を慕いあえぐ気持ちがよく分かりました。もう一つは、右手につかむよう与えられていた木の道具でした。ちょうど握りしめるのによい形で、これを私は必死になって握りしめていたのです。手術が終わってから「ずいぶん汗をかいていますね」とお医者さんに言われて初めて、私はそれを力一杯握りしめていたことに気づきました。

このような水と握り棒という具体的な二つのかたちで私は自分自身が守られていた、自分の逃れの道が備えられていたということを知らされたのです。これらは目に見えるお守りでしたが、何よりもキリストを信じる信仰こそ目に見えないお守りでした。ストレッチャーに乗せられて病室から手術室まで連れてゆかれるときに思い起こした「ここからあの方がお供なされます」という遠藤周作の『侍』の言葉が不思議な平安を与えてくれたのと同様、私自身の「荒野の闘い」は多くの天使たちに守られていたのではなかったと思えてなりません。

孤独な闘い

病気や事故で入院せざるを得ないようなとき、あるいは仕事や人間関係がうまくゆかずに大きな壁にぶつかったようなとき、私たちは「人生とは孤独な闘いである」とあらためて味わいます。考えてみれば人間は独りで生まれて独りで死んでゆく孤独な存在です。どんなに愛し合っていても、どれほどお互いに大切だと思っていても、生まれるときに独りであったように、死ぬときも人間は別々なのです。だれもそれを代わってくれない。人は皆、自分の病いと自分で闘い、自分の死を自分で死ぬ。それはごまかすことはできません。

病気になったり苦難に襲われるとき、そのことの苦さを私たちは心から噛みしめるのだと思います。自分で頑張る以外にはない。愛する者を看取るという逃がれることのできない辛い体験をされた方も少なからず皆さんの中にはおられると思います。自分で闘う以上に、愛する者が闘うのをそばでじっと見ていなければならないのは辛いことでしょう。できれば自分が代わってあげたいのに代わることはできない。自分の子供が病気になったときの親の気持ちはそのようなものでしょう。

作家のCSルイスなどは、「愛する者との死別」というのも愛の一つの必然的なプロセスであると位置づけています。どれほど愛する人がいたとしても、人は自分の闘いは自分で担わなければならない。

一昨日の夜、昨年先立たれた奥さんの後を追って自殺した作家の江藤淳の『妻と私』という本に触発されて寄せられた手記によるテレビドキュメンタリーが放映されていました。その中で妻に先立たれた一人の男性が妻への思いを記した文章で次のようなものがありました。「もし来世があるとしてもう一度私と結婚してくれるか」と妻に言ったら、しばらく考えた後で妻はこう答えた。「あなたの面倒を見ることはとっても大変だから、あなたと結婚する人はとても苦労するに違いない。しょうがないから私があなたともう一度結婚してあげるしかないじゃないの」と。これはなかなか味わいのある言葉でした。昨年放映された遠藤周作夫妻を描いたドラマ『夫の宿題』で、妻の順子さんがご主人に「私はやはり輪廻転生よりも復活の方がいいわ。だってそうしたらあなたのそばにずっといられるもの」という言葉を語っておられる場面がありました。これも心に残る表現です。夫婦の愛というものは人生の孤独な闘いをしばし癒し慰めるための生理食塩水のような、お守りのようなものだと思います。

闘うキリスト

主の荒野でのサタンとの闘いは、私たち自身の人生における逃げることのできない闘いを意味しているのではないかと思います。本日の福音書の日課はたいへん短いものです。その闘いの内容を記しているマタイやルカ福音書と違って、マルコ福音書はただ、(1)洗礼を受けたイエスが聖霊に押し出されて荒野にいったこと、(2)40日間イエスは荒野でサタンの誘惑を受けられたこと、そして(3)その間、野獣と共にあったが天使たちが主に仕えたこと、の三つだけを報告しています。

私が今回、説教の準備のためにみ言葉を読みながら思ったことは、イエスさまご自身も、確かに、人間の弱さや限界や、迷いや不信仰や絶望を、ご自身の闘いとして闘っておられるということです。決して傍観者として人間の苦しみや悲しみを眺めておられたわけではない。ご自身、その苦しみや悲しみのただ中に割って入ってゆかれた、逃げることなく背負ってゆかれたということをこの荒野の誘惑の出来事は示しています。

マルコ福音書はその冒頭で、聖霊について三つの記事を記しています。(1)洗礼者ヨハネが「わたしよりも優れた方が後から来られる。わたしは水であなたたちに洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とイエスを指し示します。(2)ヨルダン川での洗礼の出来事では、天が裂けて聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、天からの声が響きます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。(3)そして本日の荒れ野へと霊がイエスを押し出してゆくエピソードです。ここでの主人公は神の「霊」です。主はこの霊に導かれ、守られ、押し出されてゆく。「荒野」という死の世界で力をふるうのはサタンではなく、神の霊であるということがマルコ福音書の最初には三度繰り返されている。私たちの人生の荒野においても事情は同じなのではないか。

マルコは、主イエスの地上におけるご生涯のすべてに渡って、神の霊がイエスを押し出していったのだと語っているのではないか。「天使たちが仕えていた」という表現はそのような「神の霊の守り」を表していると理解できます。

主イエスの周りには常に多くの病気で苦しむ者たち、悲しむ者たち、疲れ果てた者たちが集まっていました。主はそれらの病いを癒し、悲しみを拭い、苦しみを担われたということがマルコ福音書には記されています(マルコ1章32-38節)。イエスの生涯全体が闘いであったのです。

主が逮捕される直前のゲッセマネの園でもそうでした。主は、ひどく恐れてもだえ始め、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言いながらも、地面にひれ伏し、できることならこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14章33-36節)これも主の孤独な闘いを表しています。

また、十字架上で主が、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれたときもそうでした(マルコ15章34節)。

そのように見てくると、主イエスのこの地上での歩みはすべてが荒野での闘いであったと申し上げることができるのではないか。主の十字架への道行きはすべて、人間を苦しめるものとの闘いでありました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びは、十字架の上だけではなく、最初の荒れ野の誘惑においても叫ばれていたのではなかったか。人間の苦しみを背負う現実のただ中で、私たちと共に、私たちに代わって、キリストは叫び続けておられたのではなかったか。

神の守り~仕える天使たち

私たち自身の生涯もまた荒野での孤独な闘いです。自覚するとしないとに限らず、そのような側面がある。死と罪と無意味さとの闘いです。先週、ある方から一本の電話をいただきました。 才の男性です。以前に妹さんをガンで亡くされてこの教会との関わりを持ったことがあり、ご自身もまた肝臓の病気のためにもしもの時はここで葬儀を執り行ってもらいたいとの電話でした。今年に入ってからどんどん調子が悪くなっていく。もっと自分には時間があると思っていたが、それほど残された時間はないようだとのことでした。お子さんもおありだと思います。この方も荒野での闘いを必死で闘っておられる。そしてそのご家族は必死でその方を支え続けているのです。

私たちの一人ひとりも自分なりの孤独な闘いを闘っています。しかしそれを支える家族がいる。天使たちが仕えているとしか言いようがない。そしてそのような闘いのただ中で、何よりも主が私たちと共にいてくださる! 荒野で、私たちの苦しみや痛み、悲しみを共に背負って歩んでくださるお方がおられる。それが本日のみ言葉が私たちに福音として告げているメッセージです。「ここからはあの方がお供なされます!」そのことを信じることができるとき、たとえ死の陰の谷を歩むとも私たちは孤独ではない。荒野の闘いにおいてもキリストが傍らに共にいてくださる。インマヌエルの神!この信仰こそが私たちのお守りです。

「キリストに仕える天使たち」は何を意味するか。それは、神の力が隣人を通して私たちの上にも豊かに注がれていることを示しています。信仰をもって生き、死ぬときに私たちは、神から派遣された天使たちが今もなお私たちを守り支えていることを知るのです。「天使 Angel」とは「派遣された者」という意味の言葉です。困難なとき、孤独なときに神さまからの守りを伝えてくれる者は、私たちにとって天使なのではないか。そう思うとき私たちのために仕えている天使たちが見えてくるのではないか。むさしのだよりに書かせていただいたように、手術の後に私の眼に周囲の人が天使のように白く輝いて見えたというのも、そのような神さまの恩寵の現実が輝いて見えたのではなかったかと思えてなりません。

悲しみや苦難と闘っている者たちの上に、また看病されているご家族の上に、神さまの守りと導きとをお祈りします。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年3月12日 四旬節第一主日)