マルコ福音書 2:13ー17
徴税人レビの座
本日の福音において、13節、「群衆が皆そばに集まってきた」とあります。原文では「全ての人々が集まってきた」といういささか大げさな表現をマルコはしています。マルコにとってよほど驚くべき光景だったのでしょう。群衆の中に律法学者も民衆もおりました。そして罪人と呼ばれていた人々もイエスの交わりに加えられようとしています。ファリサイ派の律法学者とは、いわば民衆達の教師でありました。そして罪人とは、教師である律法学者と庶民との関係から落第した落ちこぼれのような扱いをうけていました。そのような従来であれば許されない共存がイエス様のまわりで起こっている。その事実が、その出来事が、律法学者にとって受け入れがたい躓きとなっています。一方で、律法学者に、あるいは民衆に、罪人同然の扱いを受ける徴税人レビとは、どのような人であったのでしょうか。徴税人が好き好んでその仕事をしていたかというと決してそうではないようです。徴税人は国境付近で通行人から、関税を徴収しておりましたが、それは公平な取り立てというよりは、公の盗人に等しい酷な取り立てをしていたようです。庶民の心情だけでなく、16節以降あるとおり律法学者が非難し、罪人と同一視しているあたり、かなりの程度で社会から阻害されていた職業層でありました。
人々がレビを軽蔑するとき、レビもまた世間を白眼視していたのでしょう。その亀裂をレビも世間も、互いに相手の中に原因を見ていました。しかし自らの内に恥じることは、世間ではなく、レビのほうにしかありません。ユダヤ人であれば、だれしもが過ちであると知っていたローマの手先になる、レビ自身が十分知っていたことでありました。わずかばかり金銭を多く得ていたかも知れません。しかしそれは、徴税人の彼とその家族も世間から罪人よばわりされるには、あまりにも大きな代償であります。そんな彼にとって、「群衆が皆」集まるというそのお方がそばを通っても、さして心動かされることではなかったはずです。「あらゆる人々」が、招かれ、教えを聞き、癒され、集められ、食事をする。しかし、レビにとってそれはこちらではなく、向こう側にいる人たちの話しであり、「彼らの話しであって」、このわたしではない。それ故にレビは、座り続けるのです。座ることが、レビの生き方であり、レビそのものであります。座り込む徴税人レビの姿に、個人を超えた大きな流れに自らの人生を固定され、新しい生き方などおよそ思いつきもしない、一人の人の姿を見るのです。
イエス様に従った大勢の群衆とは、初めから「この方こそ救い主」と信じて従ったわけではありません。ある者は、この方こそ、メシアと噂し、ある者は、このユダヤを独立させる王として、革命家として、また預言者の一人として、イエス様のもとに集まったのであります。いずれにせよ、立ち上がり、歩いて、彼のもとに集う人々には、彼らなりの希望をイエス様に投影して、そのものさしで、イエス様の周りにくっついてまいりました。しかし座り込むレビには、イエス様に自分の希望を映しだす希望そのものがないのであります。宗教的にも社会的にも人々との交わりからはずれ、罪人と烙印を押されているレビにとって、自分の職業および生活を変えることなど望むべくもないことでありました。それ故に、彼は、「座りこむ」のであります。たとえマルコの語る「群衆が皆」立ち上がろうとも、レビは、「座したまま」動かないのであります。
五百羅漢
埼玉県の秩父に少林寺というお寺があり、そこに五百羅漢が奉られています。羅漢像とは、もともと仏の弟子にあたる人たちをアラハンと呼びますが、それにちなんで日本でも寺院を中心に奉られています。菩薩信仰が盛んな日本では、羅漢信仰は、栄えず、目立たず、民間信仰に溶け込んでいったそうであります。つい最近わたしは、あるハンセン病患者の方にお会いしたとき、是非羅漢像をその目で見てきて欲しいと、勧められたこともあって、先日少林寺に行って参りました。本堂の裏手に小高い山があり、その山頂にいたる小道に沿って、五百体もの羅漢像が奉られています。延々と続く羅漢像の数にもまして、その個性豊かな表情に思わず息をのんで見入ってしまいました。
わたしは一般的なイメージでもって、そこには穏やかな顔をした羅漢像を想像していました。けれども、どの羅漢像も一様に座っているものの、その表情、その座り方から姿勢まで、ことごとく皆違います。後で調べて分かったのですが、羅漢像の特徴とは、どれもみな苦汁に満ちた顔をしており、その苦しんでいる表情が、個性を際立たせている点にあるそうです。ある羅漢像は、しゃがみ込んで、両手で目を塞いでおります。別の像は、突っ伏してしゃがみ込み、あるものは苦痛の表情を浮かべて天を見上げる。あるものは経典を片手にすずやかに座っているものの、背中には、体より大きな荷物をしょっております。あるものは、耳をふさぎ、あるものは顔をふさぎ、あるものは穏やかな顔をして、あるものは猛々しい面持ちで座っているのです。
このような五百羅漢は、記録によると江戸時代に民衆が、寄進したものらしいのですが、五百もの羅漢像のなかに、すでに亡くなっている自分の家族や友人の面影を映しだしている像が一つあるという信仰があったそうです。私に五百羅漢を見てくるように勧めたそのお方は、わたしに参拝するよう勧めたのでなく、その方自身の姿をしている羅漢像があるから見て欲しいとおっしゃったのです。そのお方はハンセン病という病気を患われて、ご高齢ですが、自分の人生を振り返ったら、苦しいことばっかり、悩んでばっかりだった、そんな人生だった。そしてこの少林寺の五百羅漢像の中に、そんなわたしの心境を映しだしてくれているような羅漢像があると。そのように言われて、見に行った次第です。探しましたところ、教えてくださった羅漢像がございました。膝を抱えてしゃがんでいる羅漢像ですが、何か望み絶えているのか、顔を膝と膝の間にうずめて、後頭部しか見えないユニークな羅漢像がございました。その座している姿は、あたかも修業することをあきらめたかのように、あるいは目標へ向かって歩むあらゆる努力を断念した人の姿を表しているように思われました。その羅漢像だけでなく、どの羅漢像も、一つひとつの顔が、苦しんでいるようで、笑っているような、不思議な親密さを漂わせていました。
座を解く主
わたしたちは、それぞれ生まれた場所、時代、あるいは境遇は、悉く異なります。まったく同じ時代に生きる者たちであっても、同じ家庭でそだった兄弟ですら、見る世界も違えば、人生の味わいも異なります。あの徴税人レビであっても、またイエスに従った民衆も、あるいは律法学者であっても、彼らは皆、背景も違えば、悩みの質も背負っている荷の重さも違っていたはずです。しかし互いに荷を重くさせることはあっても、互いの荷を担い、軽くしあうことはなかなか起こらなかったようであります。いずれにせよ、皆が、それぞれが求めずにはいられない何かをイエス様のもとに携えていったことは確かなようであります。五百もの羅漢像があっても、五百通りの苦悩の表情があるように、それぞれの人生の顔は、皆違います。しかし、わたしたちがいかなる顔をしていても向き合われる方がおられる。たとえ、目の前に来て立ち上がる力を何ら見い出さずとも、あちらから近づき、「立ち上がりなさい」と声をかけ、招く方がおられる。このように招かれた徴税人レビは、「立ち上がってイエスに従った」とあります。招かれたレビがその後、どのような人生を送ったかについて、福音書は口を閉ざしております。弟子になったか、徴税人としてこの世の生をまっとうしたか、あるいはザアカイのように決定的に生き方を変えたかどうか、想像にまかせるほかありません。しかしこのレビが「立ち上がった」という言葉、一度きりイエスに出会い、その結果「立ち上がった」という言葉の重さを後にわたしたちは、知ることになります。
「立ち上がる」、ギリシャ語で「アナスタース」というこの言葉は、後に主イエスご自身が、十字架に架かられ、死んだ後、「復活した」「甦った」、ここに「アナスタース」が再び用いられています。マルコにとって、イエスの名の故に「立ち上がる」こととは、「復活」することに通ずるのであります。人の目には、それはただ座っていたレビが、イエス様に出会って、ただ「立ち上がった」と思うかも知れません。しかしそれ以上の意味があるのです。あるいはレビにとっても、変わらざる人生の一コマに束の間の夢を与えられたような出来事であったと考えていたかも知れません。しかし、聖書が力強く、確かなことと伝えているのは、人がどう変わったか、どう感じたかを越えて、イエス様と出会い、その招きに応えて「立ち上がる」とは、主ご自身の復活の故に、「甦りであり」、「復活」という意味を勝ち取っているのであります。すでにその名は、天の国に覚えられているのです。
その後のレビがどのような歩みをしたのか、分からないと申しました。しかしたった一点知っていることは、彼がどのように生きようとも、徴税人レビは、いずれ死を迎え、今、地上にはいないということであります。イエス様に方々同行した民衆達も弟子達も、そしてあの律法学者も、皆等しく死を迎えております。その意味では、わたしたちも皆、同様であります。しかしそれ故に、主イエスは、「幸いなるかな」と呼びかけるのです。みことばを語り続けるのであります。主イエスの呼びかけに応えるもの、それは「立ち上がるもの」であります。この主イエスを迎えるものは、すでに、生くるも死ぬるも、主のみ手のうちにあります。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。このみ言葉こそが、わたしたちに語りかけられる招きのことばであります。たとえ苦汁に満ちた道のりに座り込む人生であっても、そこにこそ目を留め、歩み、立ち上がらせ、永遠の命を与えてくださる主イエス・キリストを心よりお迎えして、歩んで参りたいと思います。
(2000年 2月20日 顕現節第7主日礼拝)