説教 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」 ミカ・ラトヴァラスク宣教師

マタイによる福音書6:24-34

挨拶

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

序文

本日の福音書は私たちに財産や思い悩むことや人生の意味について教えます。イエス様は鳥や花を例として使います。今回の福音書の言葉は全部イエス様ご自身の言葉です。それは有名な山上の説教の部分です。この部分はルカによる福音書にも見つけることができます。この聖書の言葉は、2000年たった今でも重要性を失っていません。今日このむさしの教会においてイエス様は私たちに教えてくれます。

マモン

皆さんの財産は多いですか?少ないですか?

聖書の中でイエス様はお金や財産のことをよく話します。お金や財産はイエス様が話されるテーマの中で最も多いものの一つです。財産は、最大の偶像でしょう。最も危険なお金の使い方は、心をお金に結びつけることです。お金がいっぱいあるか少ないかということに心を結びつけることです。一番良いお金の使い方は神様が教えたように使うことです。それは他の人々の益となるように使うことです。そうすればお金は私たちを支配しません。私たちがお金を支配します。

イエス様は富を得ることを否定しませんが、富を集めることよりもはるかに素晴らしい道を教えます。つまり、神を求め、仕えることです。ルターの教えから、少し引用したいと思います。“お金と財産をもっている時に、自分では神とあらゆるものとを豊富に持っていると考え、これに信頼する人が多くいる。みよ、このような人は、富という名の神、すなわちお金と財産をもっている。彼はそれに心から信頼している。それこそは、地上で最も一般的な偶像である。お金と財産をもつ者は、安心感を持つ。反対に何も持たない者は、神につて何も知らない者のように疑いを抱き、絶望に陥ってしまう。富をもたなくても、嘆かず、不平を言わず、いつも心確かなる者は殆どない。人間の本性は墓場に至るまでこのようなものである”。このようにルターは書いています。これは、実に真実を言い当てているとおもいます。ルターは、富のほかの、信頼の対象についても語っています。人は、高い知識や血縁関係に信頼をおくことがあります。また、人は聖人を拝むこともあります。いろんな種類の偶像を拝むこともあります。しかし、人はある一つのことがどうしても出来ずにいます。そのことをイエスは今日の福音書において語っています。“あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない”それは、神と、偶像を同時に崇め拝むことは出来ないことを意味しています。それにもかかわらず、人はそうしようとします。その結果として悩みが心をいっぱいにしてしまうのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか!主はそれを知っています、主は私たちの非常に弱いところを知っています。主はそんな私たちを助けたいと思っているのです。私達の目と、考えを偶像から、生ける神のほうに向けたいと思っているのです。“見なさい。”と神は言っているのです。神は一体何を見ろと言っているのでしょうか。“空の鳥と野の花をよく見なさい。”

明日のことまで思い悩むという誘惑は、神様に信頼しないという誘惑です

ソロモンは偉大な王でした。2950年前彼は大きな領土と王国を支配していました。このころイスラエルは最も栄えていました。ソロモン王の財産は巨大でした。聖書によると彼に香料、金、宝石や象牙が運ばれました。たとえば、毎年2万5千キロの金が彼に運ばれました。ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富を有しました。しかし、イエス様は「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と言います。

財産の崇拝の主な理由は、将来が保証されることです。明日のことまで思い悩むという誘惑は、神様に信頼しないという誘惑です。

米国の作家、マーク・トウェインが言っています。「私は人生の中で何度も苦難に襲われると心配したが、実際に起きたのはほんの少しだった。」

聖書の「種を蒔く人のたとえ」を覚えていますか?茨の間に落ちた種について何を教えていますか?「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」

思い煩いは不信仰です

イエス様は私たちに心配のない人生を約束しません。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。でも心配は神にお任せしなさいとイエス様は教えます。ペトロはイエス様について言っています「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。

私たちは、祈りを通して、天の父なる神様に思い煩いをお任せします。私たちは心配のあまり夜眠れなくなる必要はないのです。あるクリスチャンが言いました。「毎晩神様に思い煩いを委ねています。だって、神様はいつも目を覚ましておられるからです。」

イエス様は私たちが心配しないようにと勧めます。それでは、この世の富を追求することや思い煩うことに代わるものとして何を教えているでしょうか?「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じ」であるということです。
今、天の父が言います「私はお前のことを心に留めている」。
私たちの思い煩いが疑います「心に留めるですって。本当でしょうか。」
天の父が言います「わたしは世の終わりまで、いつもお前と共にいる。」
思い煩いが疑います「もしいなかったら?」
天の父が言います「私はお前に必要な糧を今日も与える。」
思い煩いが疑います「もし与えて下さらなかったら?もし与えてくださった糧が良いものでなかったら?」
私たちは思い煩うことで何を言っているのか、お分かりになりますか「天の父、あなたは父の名に値しません。なぜなら、あなたは十分に信頼できないし、良いお方ではなく、誠実でなく、助けられるほど十分に強くないからです」と言っているのです。

思い煩いは不信仰です。なぜなら、思い煩いは、私たちの問題や欠如や苦痛を神様と神様の可能性よりも大きなものするからです。私たちは神様よりもこの世的なものを恐れています。そのために天の父は今日あなたにお聞きになります「恐れを持って生きなさいと私は言ったであろうか。私は、お前を裏切ったことがあるか。そのために思い煩っているのか。私は信頼に値しないのか。そのためにお前は心配そうな顔をしているのか。そんなに思い煩っているところを見ると、私の力、知恵、可能性はお前に対してなくなってしまったのか。私に答えてみよ 」。もし答えが見つからないならは、野の花と空の鳥をよく見なさい 。神様はこのように花を装ってくださいます。鳥を養ってくださいます。

神は私たちを洗礼のときに装ってくださいました。聖餐式で私たちを養ってくださいます。

皆さんが、まず求めるものは何ですか?
何よりもまず神の国を求めるというのは、実際にはどうすることですか?どうして人は、神の国よりもこの世の幸せをまず求めるのでしょうか。

神の国を求めるというのは、私たちが、神様を私たちの人生の中で一番大切なものとすることです。十戒の一番最初に書いてあるとおり「わたしは主、あなたの神、わたしをおいてほかに神があってはならない」。そこから私たちが熱心に神の御心に聞き捜し求めることが当然になります。神様は自分の御心を告げました。この御心は神の言葉から、つまり聖書から見つけることができます。

福音

イエス様ご自身は、いつも神の国を第一に求められたのに、彼に与えられたのは、今日のテキストが言っているものではなく、十字架でした。十字架にかけられたとき、イエス様は、多くの思い煩いと不信仰のために私たちが受けなければならない罰を代わりに受けられたのです。それだから、彼は、明日を心配することをやめられない人を、今日、受け入れてくださいます。

フィリピの信徒への手紙の言葉「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

終わりの祈り

愛する天のお父様、あなたは私たちのすべての思い悩みや必要なものをご存知です。私たちを今日まで心に留めてくださって感謝いたします。私たちがあなたに信頼するように教えてください。私たちの心配を取り除いてください。アーメン。