マルコによる福音書3:1-12
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。祈り
はじめにお祈りいたします。心を合わせてください。神様へ全てのお一人お一人の心が向けられますように。心を込めてお祈りいたします。天の神様、今朝も私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。今朝は武蔵野教会の礼拝へとあなたによって招かれ、あなたによって武蔵野教会へと招かれたお一人お一人に、み言葉を通して出会えますことを感謝いたします。また、時を同じくして礼拝が行われている飯田教会のためにもお祈り致します今朝は説教者として武蔵野教会から大柴牧師が招かれております。大柴牧師も飯田教会の礼拝へ集められたお一人お一人もみ言葉を通して豊な出会いが与えられますように。
一人ひとりの方々と出会い「おはようございます。《と挨拶を交わすことのできる一瞬一瞬を与えられ感謝します。また朝を迎え目覚めること、それは当たり前のことでなく、あなたから私たち一人ひとりへ与えられるかけがえのないものであることを思います。神様、私たちはあなたから与えれられているたくさんの一つ一つのことに感謝することをつい忘れてしまうことが多いですが、一つのものを失うとき、あなたにたくさんの上平や上満を言うことがあります。そんな自分勝手な私たちですが神様あなたは私たちを愛してやみません。せめて一日を「ありがとう《から始められる今を感謝できる私たち一人一人でありますように。これから語られます神様あなたからのみ言葉この語る者を通して神様あなたがここにおられるお一人お一人へとお語りください。この語る者の全てを神様あなたへお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストの御吊によってみ前にお捧げいたします。アーメン。
片手が萎えた人の癒し
おはようございます。今朝与えられました聖書の箇所の中のマルコ3:3において主イエスは安息日と呼ばれている日にファリサイ派の人々やたくさんの人のいる会堂の中で片手の萎えた人を人々の真ん中へと招かれます。この文の中で「片手が萎えた《とありますが「萎えた《とは身体の衰えのことも指しますが「乾いた《という意味もあります。大地の乾きも指し、命の渇きも指すのではないでしょうか。主イエスにとって、ここでまるで問題にされているかのようになっている律法に定められた「安息日《が問題なのではなく、主イエスにとっては今ここで命の渇きを覚えている目の前にいる、この人を生きているこの場へと招くことが大切だったのです。主イエスの招きは今、現在も何ら変わることもなく私たち一人一人へ向けられています。
主イエスは聖書マルコ3:4において語られます「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。《主イエスは律法のために生きておられるのではなく、私たちが神様である主イエスへと心を向けるために律法があります。そして私たち一人ひとりの命の渇きに癒しを与えてくださるため主イエスは私たちと共にいて私たちを招いてくださいます。
世界中の一人一人もすべての命一つ一つはどんな存在であったとしても神様に創られ、そして共にいらっしゃる主イエスによって愛され招かれています。それは今も決して変わることなく続いています。こんなの愛なんかじゃない。と例え言う人がいたとしてもあなたは神様から愛されています。誰と比べることもできません。神様によって今、良いものであるとされて一人一人は生かされています。
与えられた今を生きる
「なぜ私は今ここにいるのだろう。《私はそんな問いを持ってここにいます。いつもいつも自分に繰り返される問いでもあります。どうしてこんな私が生きているのだろう。と問い続けても誰に問えばいいのか、誰が答えをくれるのかと、もがくときがあります。私と同じような問いを投げかけたり、今まさにそんな思いのただ中にいる方もおられるかもしれません。ただ、その問いの答は親であったり友達だったりパートナーに問いかけてみたりしても返ってきませんヒントを与えてくれたりはできるかもしれません。例え今、自分はこういう理由でここにいます。と言える方がおられたとしても主イエスのお招きがなければここで一人ひとりと出会うことができません。今あなたの命の存在を必要とされているからこそ主イエスは、あなたを今ここへと招かれておられるのです。私は何年か前にテレビドラマとなった「1リットルの涙《というドラマの主人公の少女と同じ病気です。自分がこんな病気になることも、そして今ここにいることさえも思いもよらないことです。できたことがどんどんできなくなる現実はとても辛く悲しいものです。歩く方法が足から、杖と足、そして車椅子へ、字を書く方法はペンからパソコンへ、食事をすること、人と会話をすることなど一つ一つのことがうまくできにくくなって、できる方法が変わってきています。昨年の自分ができたことが今の自分からもぎ取られていくような現実は自分でも信じたくない現実です。
そんな悲しみと向き合う中で当り前にできると思っていた一つ一つ、その一つ一つは当り前にできることではなく、与えられていたのだと気付くことができました。それは主イエスの共にある祈りの中での気付きだったのかもしれません。初めのお祈りの中にもあったように朝、目覚めるそのことさえも私たちは与えられないと目覚めることができないのです。それら一つ一つは神様が一人一人へ今与えてくださっているのです。全てのことができて当たり前だと思う世界では当り前のことができない者たちへの比較や差別が生まれます。しかし全てが与えられると思うとき、そこには比較や差別ではなく「感謝《が生まれます。全てのことが「ありがとう《から始まるのです。
今、映画化されて話題となっている「余命一ヶ月の花嫁《というドキュメントがあります。もちろん主人公である長島千恵さんは癌の早期発見を訴え命の尊さを訴えています。しかし、それだけではなくこの映画は「与えられている今《を生かされていることを知り、今を精一杯生きることの大切さを私たちに教えてくれるのではないかと私は思います。「与えられている今を生かされる《一人ひとりにとって死は終わりではありません。「今《というこの時の中を生かされているからです。でも、いくら「今《が与えられているんだよ。と言われてもその今を精一杯生きるそのことが一番難しいし、本当に勇気がいることかもしれません。
私自身も「余命一ヶ月の花嫁《の本を読んでいて正直,癌になった千恵さんがうらやましい気持ちがありました。それは死ねるからです。そんなこと。。。と思われる方も少なくないでしょう。ただどうなっていくのかわからないけど死ぬことはないと言われても。。。と思ってしまう自分がいるのです。失われるものへと心が捕われて下を向く時に「死《は魅力的になります。
主イエスの招きの声
そんな時、今朝与えられた主イエスからのみ心が語られます。「今この場に私と共に立ちなさい。私があなたの命の渇きを癒そう。あなた自身が立ち、あなた自身が手を伸ばしてみなさい。《と私もあなたも今、主イエスによって招かれています。それは遠く人里離れた所ではなく今という現在の人のただ中にそのままのあなたが招かれています。勝手に行きなさいと主イエスが言われるのではなく主イエスがおられるその所へあなたは招かれるのです。私たち一人一人はそれぞれの所で今を生かされています。今という時の中を一歩一歩自分のペースで歩めばいいのです。それが例え自分の足であっても杖であっても車椅子であっても。
主イエスは今、私がどのような状態であるのか、ここで立ちすくむしいかできないでいる私をもご存じです。それは共におられるからです。
何が急に起こるかわかりません。急に病になるかもしれません、地震が起こるかもしれません、明日死ぬかもしれません。残念ながらその時は私たちには知ることができません。だからと言って怯える必要はありません。私もあなたを驚かすつもりはありません。
しかし、一人ひとりに与えられている確かなものがあります。それは今というかけがえのない時です。未来のために生きているわけではありません。今を一つ一つ重ねていけば未来となり、また過去があったから、今があります。
今というかけがえのない時があなたに、そして一人ひとりに与えられています。
生かされている今を精一杯に生きること。それは主イエスが共にいてくださるからできるのです。そして私たちの出会う一人ひとりも同じです。大人も子どもも女性も男性もどんな人間も命在るものは全て生かされています。与えられている命そして今というかけがえのない時の中を精一杯生きることを任されています。
そして今、一人一人の命と共におられ、招いて下さる主イエスが言われます。
「私があなたを招いているあなた自身で生かされている命を生きなさい。《
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2009年6月28日 聖霊降臨後第四主日礼拝説教。伊藤早奈先生は現在東教区付の嘱託牧師として働いておられます。)