マルコによる福音書 2:18-22 ◆断食についての問答
<新しく水と霊から生まれるということ>
本日の福音書の主題は主イエスが私たちに与えて下さる「新しさ」ということです。ここでは主の弟子たちが「断食」をしないことが問題となっていますが、主は私たちを「律法を守る」という「古い生き方」から「主イエスを信じ、主に従う」という「新しい生き方」へと招いておられます。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2:21-22)。
「織りたての布」とは一度も水にさらされていない布のことで、それは水に濡れると大きく縮む性質を有します。ですから古い服に新しい布切れでつぎはぎをするほど愚かなことはないのです。「新しいぶどう酒」とはまだ発酵途上にある元気のいい新酒のことで、暴れるためしっかりとした容れ物を必要とします。古い革袋に入れると袋が裂けてしまうので、新しいぶどう酒には新しい革袋が必要なのです。ここで主が言いたいことは「新しい生き方」は「従来の古い生き方」とは相容れないということでありましょう。「古い生き方」とは「モーセ律法を厳格に守ろうとする律法主義的な生き方」で、それなりに「宗教的には敬虔に見える生き方」でもありましょう。しかしそれゆえに、律法を守る自己、正しい行いをしている自己を誇るようになる危険を内包する生き方でもあります。
ルカ福音書18章には祈るために神殿に上った二人の人の話がでてきます。自分が正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して話された譬です。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(18:9-14)。
神がどちらをよしとされたのかは明白です。自ら高ぶる者は神の前に打ち砕かれ、自らを無とする者、打ち砕かれた者は神の前に高められるのです。そしてそのような「新しさ」を主は私たちに与えてくださる。神が喜ばれる捧げ物は「打ち砕かれた霊」です。そう考えますと、古い服を新しい布で継ぎ当てすると服が引き裂かれてしまうとか、新しいブドウ酒が古い皮袋を破ってしまうという譬は、むしろ私たちが一度引き裂かれてボロボロになる必要があることを教えているのではないかと思えてきます。「光あれ!」という闇に響く声で神は天地創造を始められたように、主の声は打ち砕かれた私たちの中に新しい生き方を創造してゆくのです。
主は言われました。「だれでもわたしに従って来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従って来なさい」。私たちに求められていることは古い罪と汚れに満ちた「自分自身を捨てること」です。古い自分を温存したままでキリストに従うことはできない。古い自分は死んで、主にある新しい自分としてよみがえる必要がある。そのためにもどこかで自分自身の古い殼が打ち砕かれなければならないのです。それを聖書は「悔い改め」と呼びます。しかもそれは一度打ち砕かれたからよいというものではなくて、ルターが「キリスト者の生涯は日ごとの悔い改めである」(95箇条の提題)と言うように、「日ごとに新たにされる」必要があるのです。
ヨハネ福音書3章の主とニコデモとの対話を想起します。そこでも「本当の新しさとは何か」「どうすれば人は新しく生まれることができるのか」が主題でした。○イエス:「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」●ニコデモ:「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」○イエス:「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:3-5)
「水と霊から生まれる」とは「洗礼」を意味しています。主がヨルダン川でヨハネから受洗された時に天が開け、聖霊が鳩のように降って神の声が響きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは天からの究極の存在是認の声でした。「水と霊による洗礼」とは洗礼を通して私たちもまたこのような天からの声を聴くということです。神の”I love you!”という声によって、私たちは古い自分を捨て去り、新しい自分として生まれ変わるのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とパウロが2コリント5:17で語っている通りです。
洗礼を受けてキリストに結びあわされた者は、古い自分が死んで日ごとに新しい人間としてよみがえる。これは古い革袋でしかなかった私たちがキリストによって全く新しい革袋へと存在の根底から造り変えられてゆくのです。私たちは常に新しくやり直すことができる。繰り返し新たに始めることができる。それは何という豊かな恵みでしょうか。
ヨハネ福音書8章には一人の姦淫を犯した女性が主の前に連れてこられます(1-11節)。モーセ律法に従えば罪を犯した者は石打ちの刑で処刑されることになっていました。律法学者やファリサイ人たちは主イエスを試すために彼女を連れてきたのです。主は彼らを無視してかがんで地面に何かを書き始められました。あまりにもしつこく彼らが問うので主はこう言われます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。そして再びかがんで地面に指で何かを書き続けられるのです。その後にはこう記されています。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」(9-11節)。
主の赦しは彼女を新しい喜びの人生へと押し出していったことでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という主イエスの声は、彼女の心の中にこだまし、彼女の魂を揺さぶり続けたに違いありません。これまで誰も自分のような者にこのように深い次元で関わってくれた者はいなかった。彼女はこの声によって彼女は新たにされたのです。「光あれ!」という声が響いて新しい人の創造が始まったのです。
パウロもローマ書7章で叫んでいます。自分の中には望むことを行い得ず、望まないことを行ってしまう矛盾があって、それをどうしようもできないということに苦しみながら発せられた言葉です。「わたしは何という惨めな人間なのでしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)。そのように自らの罪に嘆くパウロ、その直後の25節では「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と讃美の言葉を語っているのです。24節と25節の間にある「深淵」といいましょうか、その「落差」の大きさに驚かされます。キリストが私たちに与えて下さるのは、そのような深淵をジャンプする「新しさ」です。キリストご自身が私たち人間には越えることのできない深淵を向こう側からジャンプして越えてきてくださったのです。み子なる神が罪人の一人としてこの地上に降り立たれたということはそういうことでしょう。天が地に接したのです。
<ボロボロの皮袋をも新たにしてくださる主の愛>
私たちは人生の中で、自分がつぎはぎだらけのボロボロの革袋にしかすぎないと思わされることがしばしばあります。仕事や受験に失敗したときや人間関係において何か取り返しの付かないことをしてしまったとき、病気になったとき、突然の喪失体験に襲われた時などがそのような時です。歳を重ねてゆくということも、次第に一つ一つできないことが増えてゆくという意味では、ゆるやかな喪失体験を積み重ねると言いうるかもしれません。あるいは、すべてがうまくいっているときにも私たちにはどこかで空しさが感じられて、このような自分ではいけないのではないかと思わされることもあります。そのような時に私たちは、自分はつぎはぎだらけのボロボロの革袋にしか過ぎないという現実を感じ取り、やるせない思いになるのです。
繰り返し聖書が私たちに告げているイエスさまの「新しさ」とは、しかし自分は何てダメなのだろうと感じているどうしようもない自分をも大きく包み込み、繰り返し繰り返し古い自分を脱皮させて、日ごとに新たな存在として再出発をすることを許してくれる新しさ、どん底の中で再び勇気を抱いて立ち上がる力を与えてくれる、そのような新しさです。本日の日課にある「断食にこだわり続けている人間」とは古く分厚い堅い殻をかぶった人間の姿を現していましょう。自分の力では変わることのできない古い人間。そのような人間が、主と出会うことを通して古い殼が打ち破られ、新しい人間としてキリストの祝宴を喜び祝うという本当の自由へと解放されてゆくのです。
主イエスの宣言する「新しさ」とは、その独り子を賜るほどに私たちを愛して下さっている神の、愛の強さによって創造される新しさです。神は私たちから罪と恥とをぬぐい去り、新しい人間(「キリスト者」!)として日ごとに新たにして下さるのです。そしてこの「新しさ」とは、日ごとに新しく創造され、神のいのちを贈り与えられるということを意味します。「一日一生、一期一会」の今を大切に生きること、それが新しいブドウ酒を新しい革袋に注ぐということなのだと信じます。
新しいブドウ酒は新しい革袋を必要とします。イエス・キリストというお方は、古い革袋でしかない私たち、つぎはぎだらけの袋でしかない私たちを引き裂き、新しい革袋へと造りかえてくださる。そのような私たちの存在を根底から新しくする真の力を持ったブドウ酒なのです。聖餐式の時に私はウェハスを二つに裂きますが、それは十字架の上に引き裂かれたキリストのみ身体の痛みを表すと共に、私たちをそこから新しくする主の愛を表しています。そのことを覚え、そのことを深く噛みしめ味わいながら、ご一緒に新しい一週間を主の愛のうちに踏み出してまいりましょう。
お一人お一人の上に、私たちを日ごとに新たにするキリストの愛が豊かに注がれますように。アーメン。
(2012年6月17日 主日礼拝説教より)