説教 「何も持たないで生きるということ」 大柴 譲治牧師

マルコ 6:6b-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

何も持たないで派遣される12弟子

教会というところは人生を照らす灯台のような場所だと思います。するとここは「むさしの灯台」ということになりますね。人生の荒波が私たちを襲う時、あるいは私たちが道に迷う時、行き詰まって壁にぶつかる時、礼拝を通し、交わりを通し、み言葉を通して私たちは進むべき方向を指し示されるのです。普段はあまりその存在価値が分からないかもしれません。しかし、暗い夜になると、夜空の星や、あるいは荒れ狂う海の中で灯台が指し示す一条の光は大きな助けになります。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とイエスさまはおっしゃいました(ヨハネ8:12)。

本日はイエスさまが12弟子を二人一組で派遣される場面です。そこにはこう記されています。「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」(マルコ6:6b-9)

私がいつもこの部分を読んで驚かされるのは、何も持たないでただ主の言葉だけに信頼し、「主の山に備えあり」(創世記22:14。口語訳では「アドナイ・エレ」、新共同訳では「ヤーウェ・イルエ」)という言葉のように、神さまが備えてくださることに自らのすべてを委ねて歩む弟子たちの姿です。これはすごい、これこそ真の信仰者の姿だと思う。そして自分の生き方は、そこからはずいぶん隔たっているよう思わされるのです。(もっとも、弟子たちもここでは不安に思ったことでしょうが、彼らを変えたイエスの権威ある言葉の力にこそ私たちは目を向けるべきかもしれませんが。)

何も持たないで生きるということの本当の豐かさを本日の日課は私たちに教えています。私の恩師の言葉を思い起こします。この方は病いのために最愛の奥様をとても辛いかたちで奪われた方です。「聖霊とは私たちに何かを与えてくれるのではない。聖霊は私たちから持っているものを奪う。それは私たちが何も持っていないことを教える」。私にとっては忘れることのできない重たい言葉です。

考えてみれば、確かにその通りかもしれません。三位一体の神を私たちは信じていますから、「聖霊」を「父なる神」または「み子イエス・キリスト」と言い換えてもよいでしょう。何も持たずに主から派遣されるということは、実は自分が頼るべき何も自分の手に持っていないことを知るということであります。この命も、この身体も、この五感も、この意識も、この呼吸も、すべて私のものではないということを知るということ。すべては主のものなのです。

旧約の詩人ヨブはすべてを失った時、立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏してこう言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)。これは真に迫力のある言葉です。私が何も持っていないということ(私の「裸」性)を知るということは、同時に、私がすべてを神からいただいて生きている(「主は与え、主は奪う」)ということを知るということなのです。

試練の意義

最初に灯台の光は夜道を失った時、荒れ狂う海の中でこそ力を発揮するということを申し上げました。実は試練の闇の中でこそ、私たちは自分が何も持たないで生きているということを知らされるのです。

その意味で、人生において夜や嵐、試練というものは大切な意義を持っています。悲しみや苦しみを通して私たちは、実は自分が何も持っていないということを知らされるからです。そしてその中で私たちはキリストの光にまで導かれてきたのです。「だれでもわたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って従ってきなさい」と言われた主の言葉はそのように理解できます。闇の中でこそ、昼間は見えなかった、灯台の光が見えてくるのです。

何も持たないでいる自分の姿が見えてきた時に、私たちは自分が生きているのではなく、生かされているのだということを知らされます。自分の持っているものに頼っているようでは、まだ私たちには何も分かっていないのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われたのだ。主のみ名はほめたたえられよ」という言葉の深い意味が。

私たちは生まれる時も裸ならば、死ぬ時も裸です。どれほど地上で名声や富を蓄えたとしても、何も持ってゆけないのです。すべては主のものであって、この身体だけでなく、この私という意識も、感覚も呼吸も、すべては主のものなのです。主が与え、主が奪うのです。聖霊が与え、聖霊が奪うのです。

詩編102:19にはこう記されています。「後の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」と。私という存在は、主のみ名をほめたたえられるために創造されていると聖書は語っています。喜びの時にも悲しみの時にも、一人でいる時にも共にあるときにも、順境の時にも逆境の時にも、私たちは主を賛美するために造られているのです。詩編の150編、そこには信頼の歌だけではなく、悲しみや叫びの歌もあります。喜びを通しても悲しみを通しても私たちはただ主を見上げるのです。

原崎百子『わが涙よわが歌となれ』

ガンで召された一人の牧師夫人(日本基督教団)・原崎百子さんの『わが涙よ、わが歌となれ』という書物のことを思い出します。この中には読まれた方もおられることでしょう。

原崎百子さんは、肺ガンの中でも最も悪性のガンに冒されて、とても苦しい闘病の末、1978年8月10日に天に召されました。今から28年も前になります。その11日ほど前の7月30日が、今年と同じように、主の日に当たりました。その日が、原崎百子さんが教会で礼拝をささげる最後の機会となったのです。そしてその日の日記にはこう記されていました。

主の日である。私たちの一週の冠である主の日。主の日は一週の出発であり、中心であり、目的である。どうかこの日、心から主をあがめ、ほめたたえることが出来るよう、朝食前祈った。
礼拝。歩いて行かれない。歌えない。唱えられない。そういう私の礼拝を、本気、本当の礼拝として捧げることを考える。

わが礼拝

わがうめきよ わが讃美の歌となれ
わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ
わが涙よ わが歌となれ
主をほめまつるわが歌となれ
わが病む肉体から発する
すべての吐息よ
呼吸困難よ
咳よ
主を讃美せよ
わが熱よ 汗よ わが息よ
最後まで 主をほめたたえてあれ

(原崎百子『わが涙よわが歌となれ』新教出版社1979病床日記より)

先に「主を賛美するために民は創造された」という詩編102:19の言葉を引きましたが、何も持たないで生きるということが実は主の恵みの豐かさに生かされるということでもあるということを、この詩は雄弁に語っています。何も持たないで主に従うことが主への讃美を可能とするのです。何も持たない私たちを主が礼拝を通して「讃美する民」へと造り変えてくださるのです。

私たちのためにあの十字架を背負ってくださったキリストに従うことが、そのような真実に讃美する生き方につながっていることを覚えながら、新しい一週間を踏み出して参りましょう。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが満ちあふれますようにお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年8月13日 聖霊降臨後第10主日礼拝 説教)