説教 「神の掟と人の掟」 大柴 譲治

マルコ 7:1―15 

 私たちにとって「本当に大切なもの」とは、どのような状況にあっても私たちを根底から支えてくれるものだと思います。この教会に来て感じることは、皆さんの中にはたいへんお辛い時期を経て来られた方が多いということです。最愛のご家族を亡くされた方。自らも病気や事故などで大変な思いをされた方。現在も病気と戦っておられる方。夫婦や親子、人間関係の破れで悩んでおられる方。言葉がとぎれ息が荒くなってゆくことの中に、その方の深い悲しみを感じ取ることもありました。じっとそばにいるだけで何もできないという無力感を味わいながら、この三週間、ひたすら祈るような思いで教会員の言葉に耳を傾けてきたように思います。

 先週の渡辺教区長による牧師就任式の時、今から11年前、当時の西教区長・小泉潤牧師にしていただいた福山教会での就任式のことを思い出しました。小泉先生は曾野綾子さんの作品の中に出てくる一人の神父さまの話をしてくださいました。舞台はフランスの小さな山村です。説教はまったくへたくそだし、礼拝の司式も音痴でだめ。牧会も対話がいつもとんちんかんになってしまう。失敗ばかりでまったくいいとこなしという神父がいた。しかし、彼は村人たちからこよなく愛されていた。それはその神父がいつも村人一人ひとりを覚えて懸命にお聖堂で祈っていることを彼らが知っていたからだった。小泉先生は私に「信徒のために祈る牧師であれ。祈り続ける牧師となれ」というメッセージを語って下さったのです。それが私の牧師としての原点であり出発点であったことを、もう一度新たに思い起こしたのでした。

 本日の福音書の日課を読むと、私たち人間はまったく何とくだらないことを大事にしているのかと呆れてしまいます。たとえば明日はもう生命がないかもしれない、今日が最後かもしれないという人間の生死が問われるような厳しい限界状況の中では、食前に手を洗うかどうかにそれほど意味があるとは思えません。主はある時マルタに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである」と告げることで、どのような場合にもなくてならぬものはただ一つ、それは神のみ言葉なのだと語りました。人の習慣や掟ではない。神のみ言葉、神の掟こそが、喜びの時にも悲しみの時にも、私たちを慰め、導き、生かすのです。

 このことに関して、7月末、帰国直後に栄光教会で聞いた重富克彦牧師による説教を思い起こします。日課はマルコの5章、12年間長血を患っている女性の癒しが、ヤイロの娘がよみがえらされるという記事に「サンドイッチ」になっている箇所です。重富先生は六月に、一年間癌と闘病されて来られた奥様を亡くされたばかりでした。先生は悲しみの中で経験された不思議な体験を淡々と語ってくださいました。死とは全く不可逆的な瞬間であって、それ以降は、それ以前のあの親しかった笑顔や笑い声をもはや二度と体験することができない、そのような時であるのだ。ある時、静岡から藤枝までの電車の中で、妻のことを思うと涙が流れてきて、周囲に悟られまいと帽子を深くかぶり直した。しばらくしてふと目を上げて見ると、夕陽にはまだ早い時間だったが、日の光がひどくまぶしく輝いていた。その瞬間、「私のために喜んで」という妻の声が聞こえたように感じた。「私のために喜んで」。それを聞いたときに自分は初めて、それまでは死のこちら側の生が奪われてしまったことについて悲しんでばかりいたのだが、死の向こう側で既に始まっている妻の主と共なる新しい人生の存在について気付かされた。「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と告げられるキリストの目から見たら、死は終わりではない。ただ眠っているだけ、もう一度キリストと共なる人生の中に目覚めてゆく、そのようなものであるのだと重富先生は語られたのです。

 主イエス・キリストは私たちのために与えられた生ける神の言葉そのものであり、神の掟そのものです。「タリタ、クム(少女よ、私はあなたに言う。起きなさい)」というキリストの言葉こそが、少女によみがえりの生命を与えたように、私たちに死を超えた、死の向こう側にある永遠の生命を与えるのです。なくてならぬこのただ一つのみ言葉をいただいて、ご一緒に新しい一週間を歩んで参りたいと思います。