説教 「開け!」 河田 優

マルコ 7:31-37

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

異邦人の町々を歩かれた主イエス

本日の聖書の出来事は、イエス様が異邦人の町々を歩かれたときの出来事です。

聖書を見ますと、イエス様はティルスの町におられましたが、この後、シドンを経てデカポリス地方へと抜け、ガリラヤ湖に戻っています。後ろの聖書地図でこの地名を確認していきますと、この時イエス様はずいぶん遠回りをして、ガリラヤ地方に戻られたことがわかります。

ある説教者が次のように言ってます。「この行程は、日本で言うと、小田原から東京を通って、信濃川の谷を通って、琵琶湖に至る。」まっすぐに小田原から琵琶湖に向かうためには誰もこのような遠回りをしません。

考えられることは、イエス様にとってこの遠回りは必要だったと言うことです。イエス様は何よりもこの道中を大切にされたのです。自分の出かける先での一人一人との出会いを大切にされたのです。

このようなイエス様の歩まれた道により、イエス様の救いは、ユダヤの民ばかりではなく異邦人にまでもたらされていきます。

イエス様は異邦人の町々を行き巡り、そこでの一人一人との出会いを何よりも重んじられたのです。

そしてこの出来事はエルサレムの地から遠く離れて生きている私達ひとりひとりとの出会いをも意味するものなのです。

「エッファタ!」

さて、このように異邦人の町を巡り歩くイエス様のもとに一人の人が連れてこられます。32節に「耳が聞こえず舌のまわらない人」とあるように、また、35節には「耳が開き、舌のもつれがとけた」とあるように、この人物は恐らく耳が聞こえないがために話すことのできない人物でありました。

それは話す口に障害を持つのではなく、話そうと思えば何か音を発することはできる、言うことはできる。しかし、耳が聞こえないために正しく言葉を発することのできないような人物であったのです。

人々に連れられたこの人に向かいあい、イエス様はご自分の指をその耳に入れられます。そして言われるのです。「エッファタ」。聖書にある通り、「開け。」という意味です。イエス様の癒しはこの人の耳に向けられたものでした。

するとこの人物は、とたんに耳が開き、舌のもつれがとけてはっきりと話すことができるようになるのです。

マルチンルター先生はこの聖書の出来事をこよなく愛し、たくさんの説教を残しています。その中でルター先生が常に言われるのは、「この耳と口を患っている人物を見るとき、それはけっして他人事として見ることはできない。」ということです。何故ならば「私たちも舌がもつれる状態であるから」と言うのです。

「神様はあなたのことを愛しています。」と、信仰の言葉を語りたいと思っても、舌がもつれます。

「私はあなたのことを愛しています。」と、愛を伝えたいと思っても、舌がもつれます。

語るばかりではなく、信仰や愛を態度で相手に表そうともそれを上手には表現できない弱さを私たちは持っているのです。

音は出るのです。少しはしゃべれるのです。しかし、どうしても思うような形で声が出てこない。言葉が足りない。言いたいことと反対のことを相手に言ってしまう。態度であらわしてしまう。そのような不器用さ、弱さを私たちは持っているのです。

ルター先生の言うように、私たちも舌がもつれている状態であるかもしれません。自分の思いを正しく伝えたいと願いながらも、なかなかそのようにはかなわないのです。

そのような弱さを持つ私たちが本日の御言葉から受け止めていきたいことは、舌の回らない人に対して、主はまずその耳を開いてくださったという事なのです。

これは愛や信仰について語るとき、まず私たち自身がまことの愛や信仰の言葉を聞き取ることの大切さをイエス様はお示しになられたのではないでしょうか。

あるドキュメンタリー

ずいぶん前になるのですが、忘れ得ないテレビドキュメントがありました。

盲学校の学生の一日を紹介していたのです。

この盲学校は実習として次のような課題を学生に与えます。それは自宅から出て一人で点字図書館にまで行くという課題です。

彼は手に持つ杖と自分の耳を頼りに、一人外に歩き出していきます。この彼の姿を通していろいろなことに気づかされたのですが、中でも駅から電車に乗る場面は印象深く覚えています。

彼は家を出てようやく駅にたどり着くのですが、駅についた彼を待ち受けていたのは、ものすごい雑音でした。

東京の駅です。そこには人の声、足音、うるさいアナウンスが満ち溢れています。テレビはこのとき画面を真っ暗にして、その音だけ流しました。それはものすごいほどの雑音です。私たちは視覚に頼っている分、この雑音は気になりませんが、自分の耳を頼りにするこの学生にとって、この雑音は進むべき道を閉ざす大きな障害となるのです。

私たちは目や耳が不自由な人に対して障害者という言葉を使いますが、しかし、この場面を見て、彼にとっての障害とは、彼自身が持っている目が見えないということではなく、歩むべき道さえ閉ざしてしまうこの雑音こそが障害であると感じました。点字ブロックに無造作に置かれている自転車もそうです。

彼は障害を持っているのではなく、障害が与えられているのです。

しかし、このような数多くの障害の中から、この学生は自分の進むべき道をしっかりと聞き分けていくのです。切符を買う販売機は、コインを入れた後、おつりがジャラジャラと落ちてくる音を聞き取ります。

そして改札口、かつては駅員が切符を切るはさみをカチャカチャと鳴らしていましたからそれがかすかな手がかりでした。しかし今は音のならない自動改札に変わり、彼はここで非常に苦労することになるのです。私たちの生活の便利さを与えるために備えられた自動改札機ですが、実はこのような盲人にとっては、進むべき方向が示されない厄介な代物であるのです。

この盲人の学生の歩みは、神様の真理を聞き取ろうとする私たち信仰者の歩みとよく似ています。

私たちもこの世の中で神様の真理を聞きとってその声に従っていくためにはたくさんの障害と立ち向かわなければなりません。この世が作り出すさまざまな声があります。神様の声よりいっそう大きくいろいろな誘惑の声が私たちを襲うのです。生活の便利さがこの盲人の足を止めたように、私たちの便利さを求めるこの世の有様は、本当に大切な、心に響く声を消し去っていっているのかもしれません。

そしてまた私たち自身の心の潜む、さまざまな雑音。神様を神様としない。そして人を愛するよりもむしろ、人を踏みつけてまでも自分の利益を追求する、そのような誘いの声、ありとあらゆる声が私たちに襲いかかり、私たちの耳は正しく神様に向けて開かれないのです。

だからこそ私たちは本日の癒しの出来事を注意深く読み取りたいと思います。イエス様は言われました。「エッファタ」「開け」。何よりも聞くことが大切だとイエス様はその耳を聞き取ることのできる耳にへと癒してくださったのです。

盲人の学生が雑音の真っ只中でなお、行く道を注意深く聞き取っていったように、私たちも本当に心から主イエス様の言葉をお聞きしたいと願うのであれば、その心の耳を主は開いてくださるのです。この世の雑音の中に生きる私たちも、しばし歩みを止めて、愛について、信仰について聞き取る耳をお与えになるのです。

敬老主日にあたって

本日は、武蔵野教会では敬老主日礼拝としての礼拝が行われています。神様からこの世での生を与えられてから、80年と言う長い年月を歩んでこられた信仰者の皆様を覚えてお祈りが捧げられます。またこの礼拝にもたくさんご高齢に方も集われていることでしょう。

そのような皆さんが歩んでこられたこの世での人生の道、あるいは信仰者として歩み始めたその道は、けっして平坦な道ではなかったでしょう。あるいは、目的地にまっすぐ一直線、一本道というわけでもなかったかもしれません。

ひとつの峠を越え、谷を下り、いつの間にかぐるっと遠回り、神様から遠く離れてしまうように過ごされたことも、もしかしてあったかもしれません。

でも、今日の日課にあるように、イエス様は自らが山を越え、谷を下りの遠回りをしてくださいました。それは、遠回りをされた場所で人々と出会い、その御言葉を語られるためでした。そして「エッファタ!」「開け」と、ご自分の御言葉を受け取る耳を開いてくださるためでした。

私たちも思い返します。人生において、信仰者としてぐるっと遠回りをしている時に、どれほどイエス様の御言葉に助けられて来たことか。いろいろな雑音の中で正しく御言葉を聞き取れないような時に、どれほどイエス様から頼りなかったこの信仰の耳を開いていただいたことか。

長い長い人生と言う歩み、迷うこともある。でも確かにあの時、あの場所にイエス様がおられて、私たちの耳を開き、語りかけてくださったからこそ、今もなお私たちは、主に従う者としてこの場に集い続けているのです。だから感謝です。そしてなおこのまま主に導かれていきたい、そのことを節に願うのです。

イエス様に癒された耳の聞こえない人が、この後どのように過ごしたかは分かりません。しかし、恐らく彼は主イエス様によって自分の耳が開かれたこと、そして耳が開かれたことにより、舌の縺れまで解けたことを数多くの人々に語っていったのではないでしょうか。

聞き取ることにより、語ることができる。

聞き取ることのできないこの耳ならば、主イエス様に耳を開いていただく、語ることのできない舌であれば、この開かれた耳をもって、なおいっそう主のみ言葉に触れていく。

だから、今、私たちはまた語り始めましょう。主がこの私を救ってくれた大いなる出来事を証ししていくのです。けっして言葉巧みでなくてもいい。この自分自身が歩んできた道のりの中で、確かに起こった主の出来事を一つ一つゆっくりと確認しながら、証ししていきたいものです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年9月17日 聖霊降臨後第15主日/敬老主日礼拝 説教。説教者の河田優牧師は、1994年の按手後、西教区呉教会、徳山教会/シオン教会で牧会。2006年4月よりはルーテル学院大学/日本ルーテル神学校チャプレン。)